浜田廣介・来歴
本名は廣助。 日本児童文芸家協会初代理事長。 代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥(むくどり)の夢』『竜の目の涙』などがあります。 坪田譲治、小川未明とともに児童文学界の三種の神器と呼ばれました。 また「日本のアンデルセン」とも呼ばれ日本の児童文学の先駆け的存在で、作家人生50余年の間に、約1000編もの童話や童謡を世に送り出しました。 来歴 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに何作かの小説を著す。 また1917年(大正6年)「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話一等に『黄金の稲束』が入選したのを機会に、コドモ社の児童雑誌『良友』から童話を発表するようになる。 翌年には『途暗し』で北村透谷賞を受けたりするが、やがて童話作家を志すようになる。 (この間、鈴木三重吉からの『赤い鳥』への参加呼びかけを断っています)。 卒業後ほどなくコドモ社に入社し、児童雑誌『良友』『幼年之友』を編集。 1923年(大正12年)から作家に専念した後も同誌から多くの童話を発表する。 1925年には早大童話会を立ち上げる。 1940年(昭和15年)に日本文化協会児童文化賞。 1942年(昭和17年)に野間文芸奨励賞。 1953年(昭和28年)に芸術選奨文部大臣賞。 1957年(昭和32年)、1961年(昭和36年)に産経児童出版文化賞を受賞。 1989年(平成元年)山形県東置賜郡高畠町大字一本柳に浜田広介記念館が建てられる。 作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれています。 しかし、1953年、鳥越信と古田足日の二人を中心をした「少年文学宣言」が発表され、小川未明と廣介は、古い児童文学として否定されるという、苦渋の晩年も送りました。 著書 『椋鳥の夢』新生社、1921年(『広介童話全集』1) 『大将の銅像』実業之日本社、1922年 『ひろすけ童話讀本』文教書院、1924-29年 『頼朝と義経』子供の日本社、1925年(英傑伝叢書) 『小鳥と花と』文教書院、1925年 『飛んで来い』叢文閣、1926年 『河うその赤んぼ』創生堂、1927年 『かっぱと平九郎』岡村書店、1939年 『ニゲタカメノコ』文昭社、1939年 『旅に出た王子』岡村書店、1939年 『竜の目の涙』フタバ書院、1941年 『兎の画家』新潮社、1941年(日本童話名作選集) 『蠅の目と花』フタバ書院、1941年 『タノシイコドモ』富士屋書店、1941年 『わにとへいたいさん』新生閣、1944年 『コドモトイヌ』昭和出版創立事務所、1944年 『ひのきまる』尚文館、1947年 『花びらの旅』小澤出版社、1947年 『一つの願い』国民文芸社、1948年 『おかあさんと花』二葉書店、1948年 『つよいたんぽぽ』児童図書刊行会、1948年 『みち』童画書房、1948年 『ひろすけ童話選集』1-6、講談社、1948–50年 『春の氏神』桜井書店、1948年(こどもかい文庫) 『雪国のおんどり』講談社、1949年 『かえるのきょうだい』主婦之友社、1949年 『雪のふる国』小峰書店、1950年(日本童話小説文庫) 『小さな川の小さなはし』羽田書店、1950年 『たぬきとつばめ』むさし書房、1951年 『浜田広介童話集』新潮文庫、1953年 『こぶたのペエくん』日本書房、1954年 『くまがさるからきいた話』日本書房、1954年 『ひろい世界』日本書房、1954年 『お山の子ぐま』金の星社、1954年 『浜田広介童話選集』全6巻、講談社、1956年 『ひろすけ童話』1−8』集英社、1967年 『童話文学と人生』集英社、1969年 『ひろすけ幼年童話文学全集』1–12、集英社、1970–73年 『浜田広介全集』全12巻、集英社、1975–76年 伝記など 浜田留美『父浜田広介の生涯』筑摩書房、1983年 小林正『浜田広介おぼえがき』北郊書房、1985年 羽山周平『さくら花咲く庭にして 浜田広介おぼえがき拾遺』北郊書房、1992年 西沢正太郎『ひろすけ童話ひとすじに 日本のアンデルセン浜田広介の生涯』PHP研究所、1994年 浜田留美『「ひろすけ童話」をつくった浜田広介 父浜田廣介の生涯』ゆまに書房、1998年 |