前田慶次






1 生没不詳の慶次

―出生の秘密―
 前田家の長子である前田利久は滝川家から妻を迎えており、一女が熱田の加藤隼人氏に嫁いでいます。利久には男子がいなかったので、弟の安勝の娘を養女として、妻の滝川一族から慶次を迎えました。慶次が滝川一族の誰の子かは不明です。
滝川家の一益(かずます/いちます)は織田信長に仕えた重臣で、慶次はこの一益の縁戚とされています。

・滝川一益の息子 ・滝川一益の弟 ・滝川一益の甥 ・滝川益重の息子
・滝川益重の弟   ・滝川益重の甥 ・滝川益氏の息子

と諸説あります。

―死亡説―
 諸説挙げればきりがありません。
 米沢では慶長17年(1612)6月4日、堂森で死亡し、遺骸は北寺町一花院、あるいは堂森善光寺に葬られたと伝えられています。(享年70歳余)墓地は関興庵が管理していますが、墓は不明です。
 加賀藩資料では、『奥州会津にて卒しぬ』とあります。
 また大和刈布にて、慶長10年(1605)11月9日73歳で死去。刈布安楽寺に葬られた説もあり、方4尺、高さ5尺の石碑に『龍砕軒不便斎一夢庵主』(野崎智道道記)と銘があります。
 庄内藩の医師田渾氏は、慶次の後裔とする伝説が残っています。
 明治の女流作家、田滓稲舟氏によれば田滓家累代の位牌に『天徳院殿利大義勇人居士』(永慶寺)とあります。

 尚、慶次は前田利久の弟安勝の娘との間に1男5女を儲けたとされています。(3女の説もあり)


2 歴史に刻まれた慶次〜利家に帰順、出奔、上杉家へ仕官






3 文化人慶次〜武士の嗜(たしなみ)



「連歌会とは」
 連想を基礎とした和歌のしりとり遊びで、全体としての内容の流転変化と機知の応酬が興味の中心である。連歌は鎌倉時代、室町時代へと次第に盛行し、中央の知識階級から地方武士の間へ伝播していった。(正伝直江兼続 渡辺三省著抜粋)

 慶次には「似生(じせい)」という雅号(がごう)がありました。慶次自ら連歌会を主催したこともあるようです。

 米沢に来てからの慶次は、頻繁に兼続などと、会を開いています。これは当時、連歌会は歌を詠むだけでなく、仲間内で志や理想を語る上でも大切な【集会の場】となっていたのではないかと想像出来るのです。

 亀岡文殊堂奉納詩歌、慶長7年(1602)2月27日直江兼続は上杉景勝米沢30万石に移封され城下町づくりに多忙をきわめていた時期に、亀岡文殊堂で詩歌の席を設け、雅友27名が参加、その中に慶次もいました。慶次は後に亀岡百首といわれるこの連歌に短冊五首を残しています


4 武辺者(ぶへんもの)慶次





〜最上攻め〜
会津120万石に移封になった上杉家は、体制つくりのため慶長5年(1600)2月、神指城(こうざしじょう)の新築にあたりました。これらの行動が徳川家康には謀反の準備ではないかと疑われ、詰問状が出されました。それに対して即直江兼続が返書を出します。『国づくりに勤しんでいるところです。告げ口を言う人がいればその人をお調べになってはいかがですか。』などと伝えました。最後に家康の出方次第ではいつでも相手になるという決意を表したものと言われています。世にいう【直江状】です。



前田慶次の格好

 兼続は米沢へ帰還することができ、慶次は命の恩人となりました。このことからも慶次の生涯で一番の活躍の場面となったであろうと想像できます。最上戦での慶次の様子は次の様に記されています。


5 関ヶ原後の慶次

 慶次についての記述は見当たりませんが、和議交渉の使者として本庄繁長が慶長5年(1600)11月3日京へ出発しました。この頃、慶次も京へ向かったものと思われます。翌年8月16日、上杉家は家康から米沢30万石に移封を命じられました。景勝、兼続は10月15日京を発ち米沢に向かいました。そして慶次は景勝、兼続に遅れること9日、10月24日米沢に向かい、京都を旅立ちました。

 『上杉将士書上』には、慶次は詩歌にも通じていたので、学者でもあった兼続とは気があったと記されています。慶次については最上戦での活躍もあり、名のある武将であったので、7千石あるいは1万石で召し抱えたいとする招聘(しょうへい)がありました。
 しかし、慶次は「天下にわが主は景勝のほかにはない」と断ったといいます。慶次は「石田治部(石田三成)に味方した大名たちは、降参すると人質を渡しおのれの安康を図るあさましい人たちである。(中略)景勝殿は関ケ原で味方が敗北しても少しも弱みを見せず、ペコペコ頭を下げることもなかった。最後まで合戦を続けた大剛の大将である」というのである。また慶次の上杉家仕官の条件は「禄高は問わない。ただ自由に勤めさせてもらえばよい」と言いました。米沢に着いた慶次は郊外の堂森に客分として余生を過ごしたと伝えられています。

6 遺跡遺品から見える慶次〜いかにもかぶき者〜



無苦庵(むくあん)
 慶次が生活した庵(無苦庵)があったといわれている場所。「無苦庵の記」が伝わっています。


慶次清水
 名前の通り慶次が生活用水として使用していたとされる清水。今もこの名前で主に潅漑用水として使用されており、利水者により毎年川掃除が行われています。以前はふんだんに湧き水がありましたが、開発などにより現在は細くなってきています。八幡原 野球場の西側、うっそうと茂った杉林の中にあります。

一花院跡(いっかいんあと)
慶次は慶長17年(1612)6月4日享年70歳前後で波瀾の生涯を閉じました。遺骸は北寺町一花院に葬られたと伝えられていますが、諸説あります。寺は文政7年(1810)の大火で消失。明治初年廃寺となりました。慶次の墓は不明です。

前田慶次供養塔
 昭和55年(1980)10月、慶次の戦功と堂森での生活を記した供養塔が堂森善光寺境内に住職酒井清滋氏により建立されました。

伝前田慶次所用甲冑
 朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足南蛮笠式(しゅうるしぬりむらさきいとすがけおどしごまいどうぐそくなんばんかさしき)で兜は編笠形、裃(かみしも)のように肩の張った肩当(まんちら)と金色の鱗形袖がなんとも異風であり、胴、草摺(くさずり)、肩当が朱漆塗の奇抜な甲冑でいかにも慶次好みです。


伝前田慶次所用槍
 慶次の武術は並外れており、数多く逸話があります。特に槍使いが得意で、朱柄の槍を使うことを許されたといいます。堂森に庵を構え近隣住民とも馴じみ戦歴に花を咲かせていたある日、孫兵衛が慶次から頂いたものと伝えられています。「下坂」という銘があり、総螺鈿(そうらでん)造りで総長3.13メートルの長槍です。

慶次自作のお面
 慶次は京都において文人および能楽者などとの交流を積極的に行いその芸を身につけました。能は武士の嗜(たしなみ)のひとつであり公の場所での舞は常でありました。慶次が堂森で彫ったと伝えられているこのお面からは喜怒哀楽の人生を感じ取ることができます。

堂森秋月の図
 堂森に居した慶次は堂森山に登り花鳥風月を楽しみました。 この図は「米陽八景」の一つで、秋月に照らされた善光寺・堂森山・月見平などが描かれています。慶次没後80年程経って描かれたもので、慶次が晩年を過ごした同森周辺の風景を彷彿させます。

前田慶次道中日記ほか古文書類
 市立米沢図書館蔵の「米沢善本」(市指定文化財)の中の一冊。慶長6年(1601)、慶次が伏見から米沢へ 戻るさいの旅日記で、道中各地の歌枕や古歌、慶次の詠んだ和歌・漢詩が添えられ、文人・慶次の高い教養がうかがえます。
 なお、日記の影印本(解説本付)が市立米沢図書館から刊行されており(2,200円)、好評を得ています。

前田慶次利貞書状
 最近になり、ようやく日の目を浴びた書状で、慶次の自筆として伝えられています。晩年腹痛におかされている様子がわかります。見舞いにいただいたミカンを食べたお礼の手紙です。この書状からも、慶次は晩年米沢に居を構えていたことが分かります。

 その他にも、堂森にはその他生活雑器が数多く残されています。



7 エピソードから見える慶次〜強気をくじき弱気を助ける心〜



〜其の壱〜
 『政者といえども滑稽な振る舞いでその心を捉えた』
利家寒中水風呂のご馳走は有名です。景勝への土産には土大根3本を献上する。また、秀吉の前でかぶいて見せた。

〜其の弐〜
 『和尚といえどもその非道に釘をさした』
林泉寺の和尚が住民に悪さをしているので慶次が乗り込み、囲碁で賭け勝負をして和尚をぶんなぐりこらしめた。

〜其の参〜
 『地元有力者へ奢(おご)る気持ちを戒(いまし)める』
新宅祝いの席で床柱に斧で傷つけ「満つれば欠ける満月」の話をして世
の常を諭した。

〜其の四〜
 『人の腐った心をたたき直す』
足を放り出して話し込んでいる店員に、これも商品かと足を買うことにした。刀を抜いて足を百貫文で切り落とす算段。町役人まで巻き込んで商人の心を入れ替えた。

〜其の伍〜
 『使用人の生活習慣を変えるため』
南無阿弥陀仏と四六時中唱えている使用人にうるさいとは言わず、仏様の身にもなってみろと諭した。

〜其の六〜
 『町の無頼漢を懲らしめる』
慶次はハナゲという男と会い鼻毛を買うことにする。約束の時期になっても鼻毛の成長が遅いので、肥やしをやると黄金水(糞尿)をかけて懲らしめた。

〜其の七〜
 『いたずら心で同僚や町人の度肝を抜く』
脇差を指したまま入浴したり、白い紋付羽織に小さなシラミの絞を付けた、兜むくりの珍芸に大勢人を集めるといった悪戯をよくしていた。

これはほんの一部であり、他にも逸話はたくさん伝えられています。

おわりに
 このようにたくさんの逸話を持つ前田慶次は、戦国武将として創造されました。戦国の時代を自由奔放に生き抜いたというその生き様が現代の若者に人気となり、【傾奇者】前田慶次は全国にその名が知れわたりました。また小説、漫画の世界でデフォルメされた慶次の世界、イラストなど具現化された慶次は当世ヒーローとして戦国武将ブームで大活躍しています。
 ゆかりの里堂森には終の棲家(ついのすみか)で悠々自適の生活をした慶次の姿を求めて全国の慶次ファンが訪れており、実在の武将として改めて遺品に触れようと宮坂考古館などに足を運んでいます。しかし肝心の米沢ではまだまだ知る人ぞ知るの存在であることも事実です。この機会に米沢の遺跡や遺物を通して、この人物の魅力をおおいに知るべきなのです。

 最後に筆者の好きな、無苦庵の記を紹介したいと思います。

―無苦庵の記―



  【現代語訳】「そもそも、私こと無苦庵には、孝行をつくすべき親もいなければ、憐れみいつくしむべき子供もいない。わが心は墨衣を着るといえるまで僧侶には成りきらないけれども、髪を結うのが面倒なので頭を剃った。手の扱いにも不自由はしていない。足も達者なので駕籠かきや小者も雇わない。ずっと病気にもならないので、もぐさの世話にもなっていない。そうはいっても、思い通りにならないこともある。しかし、山間からぽっかり雲が浮かびあらわれるように、予期せぬこともそれなりに趣があるというものだ。詩歌に心を寄せていれば、月が満ち欠け、花が散りゆく姿も残念とは思わない。寝たければ昼も寝て、起きたくなれば夜でも起きる。極楽浄土でよき往生を遂げたいと欲する心もないが、八万地獄に落ちる罪も犯してはいない。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬというだけのことであろうと思っている。」

  堂森の無苦庵での生活は身のまわりのことは自分で行い自由に暮らしながら、花鳥風月を詠む生活を楽しんでいるという前田慶次の人生観を表すものです。



       



〇掲載日 平成23年10月

〇執筆者 梅津幸保(前田慶次の会会長)

〇編集  勝見弘一(置賜文化フォーラム)

〇写真提供  財団法人 宮坂考古館
         米沢市上杉博物館
         市立米沢図書館
         亀岡文殊
         財団法人 本間美術館
         株式会社 川島印刷 
         他(個人蔵)


〇参照文献・資料  「加賀藩資料」
             「米沢里人談」
             「米沢地名選」
             今福匡「前田慶次」
             市立米沢図書館「前田慶次道中日記資料編」
             隆慶一郎「一夢庵風流記」
             「上杉将士書上」
             「前田慶次(歴史群像シリーズ)」
             「前田慶次ゆかりの里堂森」

〇関連ページ  米澤前田慶次の会

〇関連施設   宮坂考古館 米沢市東一丁目2-24 TEL0238-23-8530
          ・開館/10:00〜17:00
           (10月以降10:00〜16:00)
          ・休館日/月曜日(祝祭日は翌日)
          ・入館料/大人300円 学生 200円 小中 100円(団体割引あり)


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