ここからは置賜の南陽市、白鷹町、高畠町に伝わる民話をご紹介します!どうぞ最後まで読んでみてください。 南陽市の伝説民話を知る 鶴布山珍蔵寺の『鶴の恩返し』
誰もが知っている昔ばなしの「鶴の恩返し」。小さいころに絵本などで読んだことがありますよね? そう、助けた鶴が恩返しにやってくるあのお話です。 「鶴の恩返し」は民話として、全国になんと200種類以上の話が伝わっており、山形県内には15種類ほどの話が伝わっています。 南陽市漆山には「鶴布山珍蔵寺(かくふざんちんぞうじ)」というお寺があり、開山の由来として「鶴の恩返し」が伝えられています。 民話会ゆうづるの山路愛子さんに語っていただきました。 むがぁーし、あったけずまなぁ…。 織機(おりはた)川のほとりは葦やぶばっかりで谷地などいっぱいあったときの話だど。 ここ、新山(にいやま)さ、金蔵っていう正直な働き者いだっけど。 ある日、金蔵はとなり村の宮内さ商いに行った帰り道、別所前あたりまできたら、やろこめらがおっきな鶴一羽、足しばって棒でいじめったんだっけど。 金蔵はむごさくなって、その日稼いだ金みなはたいで、鶴んどご助けでけっちゃんだど。そうして鶴ば放してけっと、よろぉこんで金蔵の頭の上おっきぐ何回も何回も「ありがとう、おしょうしな」ってまわったんだど。 金蔵は「今日はちっと損したげんど、いいごどしたなぁ」って家さ帰ったんだど。 そうしてその晩のこと、金蔵が寝ったば、戸の口叩く音して、 「道に迷ったものだっけす、助けておごえ」 そうして誰だべと思って見たらば、足さ傷ついった女の人立ってだんだっけど。金蔵は、「まず、よれ」ってわらわら家さ寄せで、足の傷手当てしてけっちゃど。ご飯などかせで、金蔵は奥の部屋さ行って寝だど。 次の朝、金蔵目さますど、ぷーんといい匂いしてきたんだど。いろりさ鍋かかって味噌汁煮えったっけど。「ゆんべのおなご、どさ行ったんだべ」と探してみたら、庭の掃除などしったったっけど。まず御飯けぇどって、二人で朝げの御飯くったなだど。 そして、その女の人言ったんだっけど。 「だんな様、おら、とんな機織り上手なんよ。足の傷も治ったし、お陰さまで痛ってぐねぐなったから、御礼にあるもの織りますから、これから7日間の間けっして機織りしったどご、みねどごえなす。」 その日から離れの部屋で機織り始まったかと思うどゴットンバッタン、ゴットンバッタンて音がずーっと聞こえっかったど。 そうして7日目の朝、とうとう待っていらんにぇぐなった金蔵は離れさ行ってみだど。そぉーっと離れの戸を開けっと、おっきな痩せたぎっちゃ鶴、自分の羽抜いては織り、抜いては織りして丸裸同然なんだど。 驚いた金蔵は「うわぁーー!!」っておっきな声立てて、それはそれはたまげだど。そして、その音で、機の音パタッと止まって、淋しそうにおなご言ったんだど。 「だんな様。なして見やったなやす、あげにみねどごえってお願いしたのに。おらは本当はこの前助けでいただいた鶴だっけ。これはお仏様のありがたいお曼陀羅(まんだら)でございます、これがお形見でございます」 って言って、消えていったんだど。 金蔵は「わりごどしたなぁ、鶴でさえも恩返ししてけるっていうのに、おれは約束破ってしまって申しわけねぇごどした」 金蔵はお寺さま建てて、そのお曼陀羅をお納めしたなだど。寺の名前も「金蔵寺」、自分の名前を付けて建てたんだげんども、いつの頃からか、鶴の織物があるお寺様だていうことで、「鶴布山珍蔵寺」という名前で呼ばれるようになったんだど。 とーびんと。 こどもの頃は絵本で鶴の恩返しの話を読んでいたはずなのに、この語りを聴いたときは、初めて物語を知るような新鮮さがありました。語り手さんの話し方がそう感じさせてくれたような気がします。 鶴布山珍蔵寺は1460(寛正元)年に開山されたと伝えられています。 残念ながら、珍蔵寺には鶴の織った「お曼陀羅」はないのだそうです。しかし、情緒あふれる珍蔵寺の山門や大銀杏の景観は必見です。紅葉の季節のほかにも、雪景色など四季折々の表情を楽しむことができます。 南陽市にはほかにもたくさんの民話が語り継がれています。ぜひ楽しい南陽市の民話の語りを聴きに行ってみてください。 白鷹町の伝説民話をきく 深山観音に伝わる『ごぜの化け物退治』
皆さん“ごぜ”をご存知でしょうか。“ごぜ(瞽女)”というのは、昔越後(現在の新潟地方)の国から来ていた盲目の女性旅芸人です。山形のほうまでやってきて三味線を弾きながら“ごぜ唄”を唄っては、米などをもらって旅をしながら生活していました。 この話は、そのようにして白鷹町にやってきた二人のごぜの話。 話をしてくれるのは、白鷹町の「鮎貝(あゆかい)語り部クラブ」の会長、佐藤きくさんです。 昔あったどな。また、越後のごぜあ杖(つえ)引きさせて来たっけど。 橋本からがんぢゃ坂あたりまで来たら、もう昼間過ぎになったもんだから、晩げ泊っとこ願って歩いだど。お日待(ひまち)だのお庚申(こうしん)だのて、大門までいったげんど、泊めでけっどこ一軒もなかったど。ほんじゃ深山(みやま)のお観音様でも借りられるように観音寺様さ願って泊ったど。夜には唄などうたってだっけど。 夜も遅ぐなってきたがら「寝んべはなぁ」ていだれば、お堂の奥のほうでガタンって音あして、化物あ、ミシミシ……って歩いてきたど。 二人あおっかなくて硬くなっていたれば、 「ごぜごぜ、出はって俺と頭はりっこ(叩きあい)しろ」 「頭はりっこなてやんだ。許してけろ」て言ったげんど聞かないもんだがら、お堂の前さ出はっていったど。 そしたれば、「ごぜあ。先に俺の頭はってみろ」って言うがら頭さぐってにんぎりこぶしで化物の頭はったど。その頭のかったいごど、ごぜの手のほうが痛ってがったど。 そしたら、「こんだ俺の番だ。ええが」てゆって、ごぜの頭カーンって叩がっちゃれば、本性なしになって倒っちぇしまったど。化物あ「また明日の晩来っから」て行ってしまったど。 そしているうぢ、鳥あ鳴いで夜あ明げで来たれば、みんな心配して観音様のお堂さ上がって来たけど。そして、ごぜがら化物の話聞いで、村の人は「下さあいべは」って言ったげんども、ごぜあ「俺あ今晩も泊って敵討ちすっから」ってきかねがったど。 石屋がら、石のからばちと石の金づち借っちぇきたど。 そしてゆんべな(昨夜)のように唄などうたって待ってだれば、夜中ごろ、また化物来たど。 ガタン、ミシミシ……「ごぜいだな。また頭はりっこしろ」 化け物あ言うがら、前さ出はってった。「今度あ俺の頭先にはれ」ってごぜが言ったど。そしたれば、化物「ほんじゃ、はんぞ」て言って、にんぎりこぶしにハァーって息かげできたがら、ごぜこあ、わらわら石のからばちかぶって待ってだど。化物あ「ええが」つって、ゴツンと叩えだど。そして「こんだ(今度は)俺の頭はれ」って言ったど。 ごぜは「ほんじゃ、はんぞ」て、大きな金づちでガアーンてはったれば、化物あ「痛い痛い」て逃げていったど。 また朝げになって、みんな「ごぜあ殺さっちぇえだべは」て上がってきたど。ほだげんども、ごぜは無事で村の衆さ化け物退治した話したど。ごぜの話聞いてそこら見たれば、血ぼたぼた落としていった跡があったど。 村の衆そいづをたねて行ぐど、黒沢のお湯の穴ん中に、下腹に毛のないむじなあ死んでいたっけど。 とーびんと。 「ごぜの化け物退治」のお話でした。この話は白鷹町深山にある「深山観音堂(みやまかんのんどう)」にまつわる話です。
深山観音堂は、古風な形を残すところに文化的な価値が認められ、昭和28年国の重要文化財に指定されました。創建年代は明らかでないのですが、建物には平安時代の特徴が残されているので、室町時代後期の建立ではないかといわれているそうです。堂の中には千手観音が安置されています。 お話をしてくれた佐藤きくさんは、89歳になられる元気なおばあちゃんです。 きくさんからはこのほかにも、最上川にある大きな石“つぶて石”のいわれや、白鷹町の昔の町並みの話などたくさんの話を聞きました。 白鷹町にはまだまだ“宝”がありそうです! とんち話きいてみっぺ 高畠に伝わる『佐兵ばなし』 さて、次は高畠町に実在した人の話。 高畠に伝わる「佐兵(さひょう)ばなし」をご紹介します。この話を語ってくださったのは、まほろば語り部の会会長の萩野勝(はぎのまさる)さんです。 皆さん、そろそろ置賜の民話に慣れてきたのではないでしょうか? それではここから高畠の方言で。 高畠町には、まーずおもしゃいはなしがあんなよう。むがし、高畠の露藤(つゆふじ)に高橋佐兵次(たかはしさひょうじ)っていう人いだったんだど。この人はとんちのきく人で、いっつも村の人は佐兵次のとんちにやらっちぇいだったんだど…。佐兵次はほんとにいだった人だぞ、話の内容はうそか、ほんとかはしゃーねげどな。 ここで高畠出身の私鈴木が、佐兵次さんの生い立ちをご紹介します。 佐兵次の生活していた時代は江戸時代の後期。当時、佐兵次の家は水呑百姓として細々と暮らしていたそうです。6、7歳の頃から農作業をしながら弟の子守もしていたということが伝えられています。佐兵次の身分では当時は読み書きなどの勉学には無縁でした。 近くの医者が村の子どもたちに読み書きを教えていました。佐兵次は外で先生の教える声を聞いて、地面に字を書いて一人勉強していたといいます。佐兵次は幼少の頃から学問が好きで、記憶力がよかったと伝えられています。 佐兵次は17歳で結婚したそうです。浅川の“おはや”という娘の家の婿養子になりました。しかし二人は性格の違いで別れたそうです。 その後、佐兵次は自分の村に戻り、他家の農作業の手伝いをしながら自分の好きなことをして自由に暮らしたといわれています。 上の佐兵次の生い立ちでは佐兵さんがどんな人だったかはわがんねべ。これがらおもしぇ話教えっから。まず、読んでみでけろな。 佐兵がある日、おがしなこと皆さゆったごどあったんだっけど。 「いや、とんなもの見できた。死んだ馬が草食ってよう」 「なにゆってだなだ、死んだ馬が草食うなてあったもんでねぇべ」と、その話聞いた人たちゆったど。 「うそだど思うごんじゃ、その馬んどごさ行ってみろ」って佐兵がゆうもんだから、その馬がいだっていう村はずれの野原さ行ってみだんだど。 そごで馬が死んで腐っていだったもんだがら、その腐った匂いがあたり一面にしてすばらしぐ臭がったんだど。 そうすっと、佐兵が「ほうら、死んだ馬いだべ、くさくってよう……」 って、みんなして佐兵にだまさっちゃんだど。 とーびんと。 なんじょだ? “死んだ馬が草を食う”の話、おもしぇぐねがったが? んだげんども、「草食って→くさくって→臭くって」っていうとなんだが、ちびっとダジャレみだいな感じもすっけどな。おもしゃいべ。 いまひとつ、“ねずみとり”の話きいでみでけろな。 冬になっと、百姓はみんな何人か集まってわら仕事していたもんだど。 そごさ、佐兵きて「いやいや、あそごさ四つ足の鳥いだっけ。四つ足の鳥、籠さ入ってだっけ」 「この野郎、四つ足の鳥なていねべ。鳥じゃ二本足だべちぇ」 「ほんじゃ、賭けっぺ。いだぜ、確かに」 「いいべ、賭けっぺ。四つ足の鳥なて世の中さいねがら、おらだの勝ちだ」 「いやぁ、お前の負けだ。実際見てきたなだぜ、籠さ入ってだな」て言うもんだがら、みんなで行ってみたど。 そしたれば、鳥籠さ猫入っていだけど。 「ほら見ろ、四つ足の鳥いだべ」と佐兵は言ったど。 「鳥であんめぇ、猫だでら」と百姓は言い返した。 「鳥だごで。“ねずみとり”って言う鳥だごで」 そして、百姓衆は佐兵に「賭け負けだ」というごどだ。 とーびんと。
佐兵次はこうやってだまがしったけどな、なんでがっつーどな、世の中さ対する反発ってあったんでないかと言わっちぇんなだ。権力どが、お金の力さ負けでばりでは、なんとも悔しがったんだべな。ほだげんども、人を傷つけたり、殺したりなんてすっこどはなんにもいいこどはねぇがらなぁ。 佐兵次はとんちの一休さんにも勝るとも劣らぬ人だったど。 高畠町露藤には高橋佐兵次の供養塔が平成18年に建立されったど。 近くまで行ったら見でいってけろな。 ○掲載日 平成22年12月 ○執筆者 鈴木真紀(置賜文化フォーラム事務局) ○取材協力 置賜語り部の会 民話会ゆうづる(南陽市) まほろば語り部の会(高畠町) 鮎貝語り部クラブ(白鷹町) とんと昔の会(米沢市) 印刷用PDFはこちら |
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