1 発電所の歩み 地球温暖化問題や環境問題など、自然エネルギーへの関心がにわかに高まっています。米沢市には、同市舘山(たてやま)の大樽橋付近に“舘山発電所”があることをご存じの方は多いと思います。これは1919(大正8)年に建設が始まり,1920(大正9)年1月に運転開始、出力754kW、今でも無人でひっそりと頑張って働いています。 そこは田沢から流れる小樽川と、小野川から流れる大樽川が合流して鬼面川(おものがわ)となる要衝の地で、発電所のある丘陵の上には、かつて伊達藩の舘山城がありました。近くに山形県立米沢興譲館高校の学校林もありますが、今は猿一族の支配下に入っています。 さて、大樽川をさかのぼって小野川温泉の南側奥に、昔、“小野川水力発電所”があったということを 東北電力山形支店記録史「発電所の歩み」や三沢郷土誌などによれば、1897(明治30)年、七代目米沢市長の酒井寛助氏ら4人が米沢水力電気株式会社を設立し、1899(明治32)年“滝の澤発電所”として営業運転を始めました。日本で11番目、東北で3番目に早いものでした。 1911(明治44)年に福島県の伊達電力(後の奥羽電気)に売却され、1919(大正8)年の舘山発電所発足を機に小野川発電所と改名されました。経営権は福島電灯、東北配電、東北電力と伝承され、1967(昭和42)年その役目を終えることになりました。 今でも小野川で50歳以上の人は、子どものころ発電所に遊びに行ったことを覚えているそうです。 水車は米国・レッフェル社製、横軸単輪復流型フランシス水車、馬力160HPでした。発電機はドイツ・アルゲマイネ社製、回転界磁型三相交流発電機、出力100kW、周波数50サイクル、回転600rpmで、特に励磁器に特徴のある当時の最新鋭だったそうです。その後、東京浅草集中発電所にもこの発電機が採用され、東日本の周波数が50サイクルに統一されるもとになりました。 2 地域を照らす当時のにぎわい 「水が火になる」というので当時大騒ぎになったようですが、その様子を“三沢郷土誌”から抜き書きしてみます。 明治31年11月16日: 水力電気器械運搬 重量千八百貫(約6.7トン) (浦賀より汽車で福島駅まで、そこからは栗子峠の雪道を大そりで 馬や人が引いた=東北電力山形支店記録史「発電所の歩み」より一部抜粋) 明治31年11月22日: 赤芝観音坂の難所を無事通過 小野川総出で手伝い武士坂通過の際は小野川 小学校職員生徒全員が手伝う 明治31年12月9日: 試運転 三個の試点灯さん爛たる光を放ちたり工業学校二年生見学小野川尋常 小学校運搬協力で表彰 明治31年12月13日: 水力電気株式会社開業式 (市内商店街は店頭に電灯を灯し、電飾アーチなども準備された。新聞には「店 頭の光景一変不夜城となり、歓声市中にどよめき」「川に落ち込む者幾人かを知 らず」などと報じられた。=広報よねざわ1995年12月1日号・城下町ふらり歴史 探訪より一部抜粋) 明治31年12月14日: 商店主人談「石油ランプの二倍の光明 一夜一銭五厘弱、掃除、石油の世話、 ほや、笠の心配なし」 明治31年12月15日: 水が火になると言うので近村より見物客わんさ 各商店平生の数倍の収入 そばや小太郎一日平均百円 鳳鳴楼は三日間で二百円 竹盛軒一日平均百五十円 ランプ時代の米沢市民の驚きと喜びがひしひしと伝わってきます。 3 役目を終えた発電所の今 跡地(約900坪)は米沢開発公社が40万円で買い取り、マス釣り・射撃場など観光開発することになりました。射撃場の跡が今でも残っています。 一方、水車・発電機については世界的にも希少価値のある貴重な産業遺産で、このままスクラップにするのはもったいないとの声が高まり米沢市立博物館が引き取ることになりました。しかし、実際に博物館に陳列したという記録はなく、計画だけだったのかもしれません。 ところが1969(昭和44)年、電気事業史資料委員会(山崎俊雄東工大教授)が仲立ちとなり、博物館明治村(愛知県犬山市)に引き取られることになりました。今も明治村の鉄道寮新橋工場・機械館の中にきれいに保存されています。 工作機械、繊維機械、印刷機、圧縮機など明治時代に活躍したたくさんの産業機械の中から、我が水車・発電機を発見すると非常に誇らしい気持ちになります。そして博物館明治村でこんなに大切にしてくれているのに、地元の米沢で発電所の史跡を忘れてしまっていいのだろうかという自責の念がわいてきます。 発電所跡につながる水路は、米沢市小野川町の大佐田地区、夜鷹原地区を通る延長約2辧8什漾大佐田・夜鷹原堰組合が管理しています。地域住民から“電気堀り”とも呼ばれている大佐田堰は、発電所跡南方の大樽川左岸に取水口があります。数十mも進むと素掘りの水路となり、そこには小さな魚影が浮かび、山や住宅地を抜けて発電所跡まで続いているとは想像がつきません。 水路伝いに歩いていくと、大樽川と送水管への分岐点に到着します。現在は送水管に向かう水門はコンクリートでふさがれており、送水管に水が流れ込むことはありません。 下から見上げると、山肌を伝う送水管の姿は圧巻で、静かな山あいにこのような産業遺跡がひっそりと残っていることに驚きます。 同事務所が稼働していた昭和30年代、発電所近くの山に入るため、事務所周辺を往復していた遠藤久三郎さんは「四つ屋根の事務所を今でも覚えている。山に入って急な雷に見舞われると、雨をしのぐため発電所に立ち寄り雑談していたったけなぁ。地域住民が勤めていたこともあり、みな親しく、発電所で何かあれば手伝いに行ったこともあったもんだ。」と当時を振り返ります。 昔のアルバムを広げたらこんなものが見つかったと差し出したのは1枚の白黒写真。7人の男性が雨具を着用した状態での集合写真です。撮影日時など詳細は不明ですが、おそらくは昭和30年代ごろ、事務所内で撮影されたものではないかと語り、「当時は個人でカメラを持っている人は珍しく、たぶん発電所の職員が撮影したんじゃないかなぁ。写真には写っていないが、すぐ隣に水車があったんだよ。」と記憶を手繰ります。 水量の調節が必要になるのは天候が崩れているときが多く、雨や雷の中の作業に苦労したといいます。「夜中に出かけることもあったもんだ。電灯片手に水路伝いに歩いていくのだけれど、あたりは真っ暗。転落防止用に張られたワイヤーをつかんで歩かなければならいところもあったけなぁ。」それでも苦にならなかったのは、地域の電力供給に役立つことができればとの思いが強かったのでしょう。 2011年現在、発電所の名残は送水管と水路のみですが、水路は地元住民が農業用水に活用しているといい、水力発電の役割を終えた今なお、地域住民の暮らしに貢献をしています。 最後に、貴重な資料を提供していただいた東北電力株式会社米沢営業所、取材に協力していただいた地域住民の皆様に感謝いたします。 ○掲載日 平成23年7月 ○執筆者 高橋寛(宝情報提供者・山形大学名誉教授) 大竹茂美(置賜文化フォーラム事務局) ○写真提供 米沢市(米沢百年より) 博物館明治村 ○参考文献・資料 三沢郷土誌編纂委員会:三沢郷土誌、三沢公民館、pp231-232、 昭和56年8月10日 広報よねざわ1995年12月1日号 (城下まちふらり歴史探訪より一部抜粋) 東北電力山形支店記録史「発電所の歩み」 ○取材協力 遠藤久三郎さん(米沢市在住) 今七兵エさん(米沢市在住) 印刷用PDFはこちら |
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