置賜発!環境精神・草木塔 その1



1 草木塔の故郷

 皆さん、置賜地方に多く見られる草木塔(そうもくとう)をご存知でしょうか。草木塔とは、伐採した樹木に対して感謝と供養の気持ちを込めて建立された石塔のことで、置賜独特のものだといわれています。
 自然を慈しむ置賜の精神性を表しているものとして、近年注目されつつあります。
 米沢市田沢(たざわ)地区が草木塔の発祥の地といわれ、山形県米沢市と福島県喜多方市を結ぶ国道121号周辺には数多くの草木塔が建立されています。

 地元田沢地区で草木塔の保存・啓発活動が本格的になってきたのは平成に入ってからだといいます。地元田沢地区の人たちにとっては、草木塔はあまりにも身近な存在だったため、これまではそれらを広くピーアールするようなことはせず、静かに守り継いできたようです。

 もともと民間の研究者によって調査されていた草木塔が注目を集め始めたのは、昭和後期から平成にかけて。自然保護の視点から山形市内などで多くの草木塔が建立されるようになってきたほか、最近ではお隣り村山地域の山辺町内の小中学校に草木塔が寄付された事例もあるそうです。 
 そのようなことから徐々に知名度があがり、地元田沢に草木塔を訪ねてくる人が多くなってきたそうです。

 田沢地区では、1995(平成7)年から地区住民が草木塔について理解を深めようと地区の講座をスタートさせ、草木塔の文化財としての価値と置賜独特の文化を学び、地区内でも盛り上がりを見せてきました。
 その後、草木塔の価値についてもっと広く情報を発信していこうと、市民講座を企画し、大勢の市民が草木塔を見て歩いてきました。

 田沢地区に建立されている草木塔は、江戸時代に建立されたものだけでも10基を数え、その多くは刻まれた碑文がくっきりと読み取れるほどきれいな姿で今も残っています。
 国道や橋の工事作業などのため寺社仏閣の近くに移動された塔もあり、このようなことが功を奏して、よく保存されてきたのかもしれません。


最も古い塩地平の草木塔
  現在確認されている草木塔の中で最も古いとされるのが、1780(安永9)年7月19日に建立された「塩地平(しおじだいら)の草木塔」で、碑文には「草木供養塔」と刻まれています。
 一般的には草木塔として広く知られていますが、このように間に「供養」の文字が刻まれているものも見ることができます。現在は草木塔と草木供養塔が混在しており、これら2つは区別して建立されているのかどうかは定かでありません。

 建立された年代を見ると、田沢地区から川西町玉庭(たまにわ)地区や飯豊町中津川(なかつがわ)地区へと広がっていったことがわかります。
 田沢、玉庭、中津川の各地区は山仕事に関して技術交流があったと伝えられており、その交流と同時に草木塔の精神が伝播していったのではないかと考えられています。

 また、田沢地区と同じように河川を利用して城下に材木を運ぶ木流しが行われていた米沢市の万世(ばんせい)、綱木(つなぎ)、簗沢(やなざわ)の各地区でも草木塔が確認されています。

 そもそも、草木塔の起源については諸説あり、米沢市内の草木塔をとってみても民間供養説や上杉藩による供養説など様々なのだそうです。
 草木塔についての詳しい由来や経緯が記された文献が残っていないことが起源の謎を深めており、石碑に刻まれた文字や年代、場所から推測するほかないのが実情です。

 置賜の山あいには、いまだ見ぬ草木塔がひっそりと埋もれているかも知れないですね。そんなロマンを感じながら草木塔を見つめ、当時の生活文化に思いを馳せてみるのも楽しいのではないでしょうか。


     



2 広がる活動の輪

 置賜地域が誇る民俗文化財・草木塔。江戸時代から今日にいたるまで、多くの地区で草木塔が建立されています。このうち8基の草木塔が、米沢市と南陽市、飯豊町で有形民俗文化財に指定されています。
 文化的価値はもちろん、自然保護精神の視点から全国的に草木塔への関心が高まり、草木塔にちなんだ活動の輪が広がっています。

 江戸期の草木塔は置賜地域に30基以上もあり、そのうち17基は米沢市に残っています。中でも、10基が残る田沢地区では、10年ほど前に地区内の有志が集まり、草木塔周辺の草刈りや清掃を始めました。近隣住民の活動が地区全体の活動に広がったはじめの一歩です。
 このほかにも、環境保全団体「森の仲間ネットワーク」(藤倉文夫代表)が、草木塔の学習会を開催したり、パンフレットを作成したりしています。

 そんな中、草木塔の保存や啓発活動をより効果的に実施していこうと2010(平成22)年、「おいたま草木塔の会」(大友恒則会長)が発足し、最古の草木塔(塩地平の草木塔、1780年7月19日建立)にちなんで、建立日と同じ日の7月19日に設立総会を行いました。草木塔に関する研修や保存活動を行い、置賜発祥とされる草木塔について広く県内外に発信しています。

 これまでも有志による保存活動を行ってきましたが、同会を通じてより多くの人に関心と愛着を持ってもらいたいねらいです。さらには米沢市内のものだけにとどまらず、置賜全域の草木塔を勉強し、将来は広域的な活動にしていきたい考えです。


米沢市小野川町内で行われた研修会=2010年9月7日

 会員には、米沢市在住者はもちろん、地元の川西町や高畠町、遠くは東京都や福島県などから約50人が参加しており、草木塔の価値を知る人は全国に広がっています。
 2010(平成22)年秋には、研修会を開催し、米沢市小野川(おのがわ)温泉地区にある「小町山(こまちやま)の草木塔」を見学しました。シャクナゲに包まれるようにたたずむ草木塔を前に、地元の方から同所の草木塔について説明を受けると、参加した会員からたくさんの質問が飛び交いました。

 大友会長は保存活動について、「草木塔発祥の地の会として、どのように草木塔を保護し、後世へ残していくかが重要です。また、草木塔に対する関心は高まっているものの、まだまだ知らない人もいます。草木塔建立に込められた自然を敬う気持ちを広めていきたいです」と今後の展望を語ってくださいました。


     


3 草木塔を見つめる二人の視線

 前章で草木塔の保存活動が広がっていることを紹介しましたが、草木塔に対する熱い思いをもって活動している方もまた多くいらっしゃいます。

 「おいたま草木塔の会」の顧問を務める藤巻光司さん(83)は、草木塔を見守り続けて60余年、草木塔の撮影をライフワークになさっています。
 また、同会会員の吉田由希さん(25)は、大学の卒業論文の一環として、文化財保存の視点で草木塔を調査してきました。住所、年齢、性別の異なる二人から草木塔を見つめる思いをお聞きしました。


藤巻光司さん(83・米沢市・おいたま草木塔の会顧問)


藤巻光司さん

草木塔を見守り続けて60余年。仕事の合い間をぬって、撮影した写真の数は5,000枚以上にのぼります。草木塔の情報が入れば県内外を飛び回り、草木塔の写真展を開催したこともあります。
 「もう年だから以前のように現地を訪ねる機会は減ってしまったなぁ」と語りながらも、草木塔に向ける眼差しは、まるでわが子や孫を見るような優しい目です。

 1927(昭和2)年、米沢市出身。18歳のときに兵隊に志願し、横須賀の海軍砲術学校を経て海軍に。駆逐艦に乗船中に終戦を迎えて、米沢市に帰ってきました。
 草木塔との出会いは1949(昭和24)年、当時勤めていた日本通運の仕事で田沢街道を通行中のことです。道路が冠水したため立ち往生したときに、地元の木流し衆から「白夫平(しらぶだいら)の草木塔」について教えてもらったのがきっかけです。

 はじめは、草木塔が全国どこにでもあるものだと思っていましたが、その後置賜地域独特の文化だと知り、関心を抱いたそうです。その後は、当時草木塔研究の第一人者だった佐藤忠蔵氏の資料をもとに、草木塔を訪ねて写真を撮影するようになりました。

 現地に足を運ぶと、草木塔の前で会釈し、感謝の気持ちを込めてシャッターを切ってきたといいます。できるだけきれいな姿で残そうと、太陽の位置や気候を考え、何度も足を運びました。最近では、風化が進み、文字が薄くなった「塩地平の草木塔」ですが、まだはっきりと文字を読み取ることができた頃の貴重な写真もあります。

 草木塔一つひとつに思い出があるという藤巻さん。飯豊町の「十四郷荘(とよさとそう)の草木塔」とも深い関わりがあります。
 羽越水害が発生した1967(昭和42)年、この草木塔が無事か心配でいてもたってもいられず、現地へ確認しに行くと、流されて川に沈んでいる草木塔を見つけたそうです。慌てて川から運び上げ、流されないようにと山際まで移動させたそうです。
 藤巻さんの懸命な行動がなければ、この草木塔は川底で永遠の眠りについていたかもしれません。

 藤巻さんは、果物や稲なども広い意味で草木に入ると考え、人間が生きていくためには草木と人間は切っても切れない関係で、草木に対する感謝を忘れてはいけないと語ります。
 そんな思いから米沢市立三沢西部小学校に草木塔を寄贈したそうです。藤巻さんが建てた草木塔は、元気に登校する子どもたちをいつも見守っています。
 「置賜をはじめ全国に建立されている多くの草木塔をこれからも大切に守っていってほしい」と、藤巻さんは目を細めながら次世代の子どもたちにエールを送っていました。

 ちなみに、藤巻さんにとって最も思い入れの強い草木塔は「白夫平の草木塔」だそうです。草木塔に関心を持つきっかけとなった塔であり、その塔には「梵字」や「経文」、「草木供養塔」の文字など草木塔の特徴が全てがそろっているからなのだそうです。


吉田由希さん(25・山形市・東北芸術工科大学大学院生)

吉田由希さん
 文化財保護を学ぶため、広島県から山形県の大学に。江戸時代に建立された草木塔を卒業論文のテーマとして、現地へ足を運んで調査を重ねてきました。
 ほかにも、環境保全団体「森の仲間ネットワーク」が発行した冊子「草木塔との語らい」の編集に携わったほか、「おいたま草木塔の会」の会員に加わるなど、文化財に注ぐ熱い思いは本物です。

 美術史・文化財保存修復学科に進み、鳥居や歴史街道など現地を訪ねて、地域の文化財に触れてきました。そして、地域に残る文化財を守り、受け継いでいくためには、地域住民の協力が不可欠だと感じたそうです。学術先行の考えではなく、文化財に身近な地域住民の大切さにも心を配っています。

 卒業論文では、草木塔がどこにあるのか、まず現地を訪れるところから始まったそうです。近年は草木塔に対する関心が高まっているとはいえ、一部の草木塔は近くに人が住んでいないため、草木に埋もれている場合もあるからです。
 草木をかきわけやっとの思いで塔に出会った時は喜びもひとしお。GPSを使い、緯度経度を測定し、地図上に建立場所を入力していきました。

 また、草木塔のどの部分に傷があるのかを確認し、亀裂や欠損の程度から草木塔の劣化度を分類していきました。劣化の激しいものについては冬場の表面温度を測るなど、適切な管理方法を模索する一方で、「仮に冬場の管理を提案しても、地元の人たちの協力がなければ机上の空論で終わってしまう」と、地に足をつけた考えを持っています。

 吉田さんは、草木塔の調査や冊子作成を通じて、草木塔だけでなく、その地に根付く文化を知ることができたといいます。
 「江戸時代の人と同じような感覚で草木塔を捉えるのは難しいが、『木流し』の文化や、今もなお供養祭が開かれていることを聞くと、草木塔周辺の暮らしが見えてきて面白い」と、表面的な知識だけでなく、田沢地区の人々の奥深い文化を肌で感じてきました。

 草木塔との関わりを振り返りながら、吉田さんは「田沢地区だけでなく草木塔に関わる多くの人たちの協力を得ながら、研究を進めることができた。私の活動が草木塔の保存に役立たせることができたら嬉しい」と感謝の気持ちでいっぱいのようでした。

 ちなみに、置賜の草木塔の中で、吉田さんが好きなのは、口田沢(くちたざわ)にある「下中原(しもなかばら)の草木塔」。川のせせらぎが聞こえ、周囲の雰囲気を含めて一番なのだそうです。


《置賜発!環境精神・草木塔 その2につづく》


     




○掲載日      平成22年10月

○執筆者      大竹茂美(置賜文化フォーラム事務局)

○取材協力    藤巻光司さん(おいたま草木塔の会顧問)
            大友恒則さん(おいたま草木塔の会会長)
            荒沢芳治さん(おいたま草木塔の会副会長)
            伊藤清幸さん(おいたま草木塔の会幹事)
            吉田由希さん(東北芸術工科大学大学院生)

○関連ページ   草木塔の里 田沢







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