米沢に来ていた吉田松陰!!


第1章 吉田松陰ってどんな人?

 江戸幕府の崩壊から明治という新しい時代への転換期は、政治の状況が1日と言わず二転三転するため、歴史的にも理解することが難しく、歴史好きの方でも苦手という人が多いのではないかと思います。
 そんな幕末から明治の激動の時代に登場した人物を挙げていくとしたら……。まずは、やはり坂本龍馬でしょうか? それから、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、勝海舟、近藤勇、土方歳三、伊藤博文、山縣有朋、篤姫、……etc.
 私のお気に入りの人が入っていない!抜けている!とお怒りの方もいるでしょうが、順不同、客観的データに基づいておりませんので、お許しください。
 さて、本編の主人公、吉田松陰もかなりの有名人です。でも、具体的に何をした人? 何で知っているのだろう?と自問自答したくなる人物でもあるのではないでしょうか。
 

絹本着色吉田松陰像(山口県文
書館蔵・画像の無断転載禁止)


 第1章は、ありきたりではありますが、彼のプロフィールを。まずは、基本的知識を理解しておきましょう。

生没年  天保元年(1830)8月4日〜安政6年(1859)
       10月27日  享年30歳

出身地  長門国(山口県)萩

幼 名  虎之助 のち大次郎、松次郎

通 称  寅次郎

諱(いみな:本名)  矩方(のりかた)

字(あざな)  義卿(ぎけい)、子義(しぎ)

    松陰、二十一回猛士

両 親  父:長州藩士杉百合之助常道(家禄26石)

      母:滝

養 父  叔父:長州藩士(山鹿流兵学師範)吉田大助 賢良(家禄57石6斗)

家 督  天保6年(1835)6歳

肩 書  長州藩士、思想家、教育者

生 涯  家督を相続したとはいえ6歳の松陰は、実家杉家に同居して、実父から厳格な教育を受け、また叔父である玉木文之進の開設した私塾、松下村塾に学び、11歳の時には藩主毛利敬親(たかちか)の前で講義し、その才能を示しました。

 嘉永3年(1850)〜嘉永6年(1853)は諸国遊歴の時期といえます。嘉永4年3月には、江戸に向かう藩主に従い江戸に遊学し、儒学者の古賀茶渓(謹一郎)・兵学者の山鹿素水・佐久間象山等に学びました。
 同年12月、藩の許可なく東北地方に向かいました。江戸に戻ったのは翌年4月でしたが、処分を受け郷土長門への帰国を命じられました。
 嘉永6年(1853)正月、諸国遊学を認められた松陰は再度江戸に遊学し、ペリーの浦賀来航に遭遇しました。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学び、その思想に大きな影響を受け、海外視察の密航を企てました。密航を自首して捕縛された松陰は、藩幽閉の処分を受け、萩の野山獄に収容され、読書と思索、執筆の日々を送りました。
 安政2年(1855)、実家杉家へのお預けとなった松陰は、松下村塾の実質的な主宰者となって、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)、久坂玄端、吉田利麿、前原一誠、伊藤博文、山縣有朋など幕末、維新期に活躍する人材の育成に力を注いでいました。この時期が、松陰にとって最も輝かしく、私たちが知る松陰でもあります。
 しかし、安政5年(1858)の江戸幕府による日米修好通商条約の無断調印を激しく批判し、政治に関与していきました。そのことは門下生との間に不和を生み、また長州藩もその影響力を危険視して再び野山獄に収容しました。
 翌6年5月、幕府の命により江戸に護送され、10月27日に処刑されることとなりました。いわゆる「安政の大獄」(江戸幕府による政治・思想の大弾圧)です。
 松陰の生涯は、欧米列強に対して国の独立の道を常に課題とし、「至誠」の言葉を好んで用いた真摯なものでした。その信念は人々に感銘を与え、多くの門下生を育てましたが、30歳の若さで政治的に葬り去られる要因ともなりました。


第2章 なぜ米沢に来たの?(東北遊の目的)


東北遊での松陰の主な足取り

 嘉永4年(1851)12月14日午前10時、松陰は江戸桜田の長州藩邸を水戸に向かって出発しました。思えば米沢藩の江戸屋敷も桜田にあり、上杉邸と毛利邸は隣合っていたのでした。
 さて、12月も中旬、雪深く厳寒の時期になぜ、松陰は東北を目指したのでしょうか?
 この旅には2人の同行者がいました。熊本藩士の宮部鼎蔵(ていぞう)と盛岡藩士の江幡五郎です。江幡は思想犯で罪を問われた兄の仇討ちを期しており、赤穂浪士討入の12月15日を出発日と決めたのでした。
 その日、3人は水戸で合流します。宮部はのちに元治元年(1864)、池田屋事件で新撰組に襲われ自刃します。松陰とともに宮部も米沢に来ていたとは驚きです。
 松陰の東北への旅は、藩の許可を証する関所手形という通行証が必要でした。パスポートにあたるでしょうか。しかし、松陰は前述のように出発の日取りも決めてしまい、事務手続きの不手際から、なかなかでない通行証を待つことができませんでした。
 結局処罰覚悟の亡命を決断してしまいます。北はロシア、西は満州に近い東北は、国の防衛上重要性を増しつつありました。すでに松陰は、九州に赴き、江戸に上るのに際し、畿内・山陽・西海・東海と旅していましたが、東北は未知の地であり、直接見聞を広げたい思いが募っていました。
 松陰は松野他三郎、江幡は安芸五蔵と変名しての旅です。越後を目指す松陰らは、白川(河)で江幡と別れました。会津を経て雪の越後路から荒れ狂う日本海を佐渡にわたり、再び新潟に戻り、舟で秋田に向かおうとしましたが、折からの悪天候のため舟が出ず、海沿いの陸地を北上し、久保田城下(秋田市)に入ったのは閏2月24日でした。
 さらに津軽街道を弘前城下、そして津軽半島まで足をのばし、青森、七戸、盛岡、一ノ関、石巻、仙台と南下し、七ヶ宿街道から二井宿峠を越えて米沢に入ったのは、3月25日のことでした。
 詳細は次章に記しますが、米沢には長崎で医学の修行をした高橋玄益(げんえき)がおり、彼を訪ねて米沢藩士と語ろうとしたのです。
 米沢から桧原峠を越えて会津若松へ、田島を経て江戸に戻ったのは、嘉永5年4月5日でした。23歳の松陰の140日間にわたる旅でした。


第3章  米沢滞在の3日間
 

吉田松陰の米沢訪問を後世に
伝える石碑=米沢市中央7丁目

 嘉永5年(1852)3月25日、高畠から亀岡を経て、河井(米沢市川井)に至り、花沢の関を過ぎ、米沢市内に入りました。
 松陰が記した『東北遊日記』には、
 「(前略)花沢の関を過ぎ、橋を渡りて市に入る、即ち米沢なり。上杉弾正大弼(だんじょうだいひつ)十五万石の都なり。荒町に宿す。廿六(にじゅうろく)日晴。高橋玄益を訪ひ、藩の諸学士に介(とりつ)がんことを求む。会ゝ(たまたま)藩侯将(まさ)に明日を以て発し江戸に朝せんとす。ここを以て諸士繁劇、相見るを得ず。(後略)」――と記されています。
 「米沢市史」等では、松陰らが宿泊したのは、粡町(あらまち)辻西の旅篭遠藤権内または遠藤権兵衛宅とありますが、旅篭を特定する資料がないことがわかりました。今後の研究が待たれます。
 平成3年(1991)、粡町町内の方々が中心となって、松陰の米沢訪問を後世に伝えようと、米沢市中央7丁目の一角に石碑を建立しました。10月27日、松陰の命日が建立日です。
 松陰が訪ねた高橋玄益(玄勝)は、代々藩医の家系で、祖父の桂山は杉田玄白に師事し、十代藩主上杉治広(はるひろ)の侍医を勤めています。父の松丘は十二代藩主斉憲(なりのり)の侍医となり、娘婿の三潴玄寿(みずまげんじゅ)と次男藁科松伯は、大坂の適塾で緒方洪庵に学びました。嫡男が玄益で、その子孫は代々玄益や玄勝を襲名しています。
 玄益は上杉斉憲の学友で、江戸勤学後の天保12年(1841)6月から2年間、長崎で修業をしています。戊辰戦争中は病院頭取として負傷兵の治療にあたっています。また、藩医筆頭として米沢藩の医学校「好生堂」の近代化に努め、英学を通して新しい病院に医学校を併設する構想の実現に力を注いだ人物でした。
 3月26日、玄益を訪ねたものの目的を達成することができなかった松陰は、領内視察を行ったとみえ、その見録記録は詳細です。
 領内の村々と役所や役人などの支配体制、高家、分領家(上級武士)、馬廻組、五十騎組、与板組からなる三手組(中級武士)、下級武士など米沢藩の家臣団についても詳細で的確です。原方衆と呼ばれた下級武士の住した「南原(みなみはら)」の地名も出てきます。藩主の側室や奥女中の出自などについても触れています。
 さらに産業について、国産の大なるものが蚕と漆であって、その使用法や数量、売買、納税方法等まで細かく記しています。最後に、明日が藩主の出立日とあって市街の巡視警戒は宵から暁まで止むことがなかったと。
 3月27日辰ノ刻(午前8時)、米沢藩主上杉斉憲は米沢城を発し、行列は米沢藩の参勤交代の道、板谷街道をいつものように江戸に向けて旅立ちました。松陰らは大町でこの行列に出くわし、一行を見送る形で会津街道を江戸に向かい出発したのでした。
 米沢藩士と大いに語ろうと思っていた松陰も残念だったに違いありませんが、松陰の米沢滞在がもっと長かったら、より多くのエピソードが生まれていただろうと、後世の私たちもいつも口惜しく思うところです。


第4章  長崎で学ぶ米沢藩の人々


伊東家の菩提寺である龍泉寺=米沢市大町4丁目

 上杉鷹山によって学館再興がなり、安永5年(1776)には藩校興譲館が設立されるとともに、優秀な学生若干名が、細井平洲の江戸の私塾嚶鳴館で学ぶことができる江戸勤学の制度も整いました。特待生の公費による江戸留学といったところです。平洲没後は留学先は櫻鳴館から古賀塾に変わります。
 松陰も江戸に遊学の際、古賀茶渓(謹一郎)に学んでいますので、米沢藩士と会っているかもしれません。今後の研究が楽しみです。
 この制度はやがて医学生にも広げられ、米沢藩に仕える医者の堀内忠明(素堂の父)が杉田玄白・大槻玄沢に師事すると、江戸勤学が盛んとなり、藩医の子弟に限らず自費でも、江戸・大坂・京都・長崎といった医学先進地への留学が活発となりました。
 最も著名なのは、長崎遊学でシーボルトの鳴滝塾に学んだ伊東昇迪(しょうてき)(救庵)です。その次男には政治家として活躍した平田東助、また孫に文化勲章受章者で建築家として著名な伊東忠太がいます。
 伊東家は米沢藩士でしたが医業に転じ、藩主上杉氏やその一族の治療にあたるなど名医を輩出しました。昇迪の長崎遊学は自費で、3年間鳴滝塾に学び、内科・外科を修めました。
 米沢に戻って家督を相続した昇迪の蘭方医としての名声は高まりましたが、疱瘡(天然痘)の予防接種である種痘の普及には腐心しました。そこで二人の娘に接種して、効用と害のないことを証明しました。
 また、弘化2年(1845)、幕政批判により投獄された(蛮社の獄)友人高野長英が獄舎の火事に乗じ脱獄して米沢に立ち寄った際、堀内素堂とともに長英をかくまったことは知られるところです。長英と昇迪は長崎で、素堂は江戸で、それぞれ親交がありました。
 昇迪の嫡子祐順も江戸・長崎に留学しています。米沢藩も人材の育成に力を入れるとともに、向学心に燃える若者たちが藩を出て先進地で学びました。そこには全国から優秀な人材が集まり、人脈を広げていきました。培われた知識・教養・思想などは藩に戻って活かされ、また、明治という新しい時代に多くの人材を輩出する土壌となっていたのでした。


第5章  雲井龍雄とともに眠る


雲井龍雄像(所蔵・米沢市上杉
博物館、画像の無断転載禁止)

 江戸時代、安政の大獄の最後の犠牲者といえる吉田松陰と、明治時代、新政府による最初の政治・思想犯として処刑された雲井龍雄(小島龍三郎)。二人はともに小伝馬町牢屋敷(中央区日本橋小伝馬町 十思公園)で斬首され、雲井は小塚原回向院(えこういん)(荒川区南千住5丁目)の吉田松陰の墓のそばに葬られました。
 明治12年ごろ、山下千代雄(のち衆議院議員)らが雲井の遺骨を掘り起こし、谷中天王寺に埋葬しました。米沢では昭和5年(1930)に小島家の菩提寺の常安寺で60年忌法要を営み、遺髪を埋めて供養し、更に谷中に埋葬した遺骨を改葬しました。
 雲井龍雄の生涯を概括的に紹介します。
 雲井は、天保15年(1844)1月25日、米沢藩士中島総右衛門の二男として米沢の袋町(松が岬2丁目)に生まれました。幼名猪吉のち権六、熊蔵、龍三郎。雲井龍雄は仮名ですが、25歳の慶応4年(1868)7月頃から晩年にかけて用いました。そのほか、遠山翠(とおやまみどり)、桂香逸(かつらこういつ)、一木緑(いちきみどり)などの変名があります。
 18歳の時、小島才助の養子となり、慶応元年(1865)5月、江戸藩邸警備の任につき、安井息軒の三計塾にも通って学びました。時勢が緊迫していることを知る雲井は情報収集の必要性を説き、自分がその任にあたりたいと再三上書、嘆願を行いますが、保守的な藩当局に受け入れられずに時が流れていきました。
 慶応2年(1866)、27歳の千坂高雅が奉行(国家老)に抜擢され、雲井はその下で京都の探索を行うことになり、表舞台での活躍が始まります。
 奥羽列藩同盟が成立すると、その背後にあって東奔西走、神出鬼没の行動で、戊辰戦争時に新政府軍と戦う諸藩の士気を高めるために書かれた「討薩檄」(とうさつのげき)は新潟の加茂で起草されたものです。しかし、東北諸藩は次々に降伏し、雲井も米沢での謹慎を命じられました。
 明治2年(1869)、東京に出て、9月、政府が設けた集議院の寄宿生となりましたが、薩長への憎悪から1ヶ月ほどで辞職しました。
 雲井は翌3年2月、東京芝二本榎上行寺・円真寺に「帰順部曲点検所」(きじゅんぶきょくてんけんじょ)を設けました。不平士族を政府に帰順させる説得所としていましたが、新政府からは不平士族の屯所と見なされ、5月、新政府の検挙によって龍雄は逮捕され、米沢に護送となりました。
 7月には再び東京に送られ、12月26日(28日説あり)小伝馬町牢屋敷で斬首され、小塚原にさらされました。27歳でした。



        



 ○掲載日 平成23年4月

 ○執筆者 角屋由美子(米沢市上杉博物館学芸主査)

 ○参考文献  「国史大辞典」吉川弘文館
          「吉田松陰全集」山口県教育会 岩波書店 昭和15年
          「吉田松陰 東北遊日記」日本の旅人 奈良本辰也著 
                      淡交社 昭和48年
          日本の名著31「吉田松陰」中央公論社 昭和48年
          日本思想体系54「吉田松陰」岩波書店 昭和53年
          「吉田松陰 変転する人物像」田中 彰著 平成13年
          「米沢人国記<中・近世篇>」米沢市史編集資料第十号 
                      米沢市史編さん委員会 昭和58年
          「上杉家御年譜 斉憲公」 米沢温故会
          「米沢市史 近世編2」 米沢市史編さん委員会 平成5年
          「東北の長崎−米沢洋学の系譜−」松野良寅著 昭和63年
          「雲井龍雄遺骨移葬に関して」高木藤太郎著  昭和7年



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