アジアのアルカディア〜イザベラ・バードからのメッセージ〜



1 プロフィール

 イサベラ・L(ルーシー)・バードは、19世紀後半から19世紀末にかけて世界各地を巡ったイギリス人旅行作家です。 1831年10月15日、イギリス・ヨークシャーのバラブリッジという所で、牧師夫妻の長女に生まれました。日本では、江戸時代が後期〜末期へと向かいつつある頃の、天保(てんぽう)2年になります。
 22歳の時に初めての本格的な海外旅行でカナダやアメリ力を訪れ、見聞を記録・出版した旅行記がデビュー作でした。その後、オーストラリアやニュージーランド、ハワイ、日本、マレー半島、朝鮮半島や中国、チベット、インド、ペルシア、アルメニア、トルコなどの大旅行を繰り返し、多くの著作を発表しました。
 最後の長期旅行となったのは、19世紀最後の年である1900年(明治33年)〜1901年のモロッコヘの旅で、1904年(明治37年)、エディンバラで病没しました。満72歳でした。まさしく、20世紀の開幕とともに旅を終えたといえるでしょう。
 バードは幼い頃から病弱で、脊椎(せきつい)も病んでいました。 22歳以降の大旅行には、医者の奨めによる転地療養の意味もあったといわれます。彼女の日本旅行記を見ると、「背中の痛み」についての記述が何度も出てきます。そのためもあってか彼女は長距離を歩くのが苦手だったらしく、得意な乗馬や、船や、日本では人力車も多用しました。
 しかし馬や人力車といっても、健康な人でさえ長時間乗り続ければ身体のあちこちが痛んできます。しかもバードは、しばしば険しい峠越えや山道、土砂降りや洪水、時には川床や藪の“道なき道”をくぐり抜けたのです。肉体の辛さにもかかわらず苦難の旅を支えたのは、彼女の強靭な精神力と、人生への姿勢だったのかもしれません。
 バードの頃の世界は、女性の「自由」が今より遥かに制限されていました。未知の異国を女性がたった独りで長旅するだけでも極めて異例だった時代、バードは「自由」を求めて広い世界に旅立った「女性」でもありました。行き先によって現地の通訳やガイドを雇いましたが、覚悟としては<女独り旅>です。おまけにバードは、旅先の見聞・体験を非常に詳しく、しかもできるだけ客観的に記録しました。その文章も、時にはユーモアを交え、時には詩情豊かで心に沁み、情景が生き生きと伝わってくる優れたものでした。バードは、西洋女性が単身外国を旅して記録するという“レディートラベラー”の、先駆けの一人ともいわれています。

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−バードの旅と信仰−

 バードは英国国教会牧師の家庭に生まれ育ち、敬虔なキリスト者でした。 1860年にエディンバラに定住した後のバードは、しばらく本格的な旅行をしていません。この時期の彼女は、信仰に基づく慈善活動や困窮者救済に熱心に取り組みました。
 その後の日本旅行をはじめとする極東や中央アジアなどの旅には、西欧人がほとんど行ったことのない<未踏(みとう)の地>を踏みたいという気持とともにキリスト教布教の最前線を見聞し<もっと奥の世界に>分け入りたいという思いもあったようです。彼女の旅の動機には、健康回復のための転地療養や探険心や「自由」への希求だけでなく、宗教的な関心もあったのです。

−バードの人柄−

 バードは、どんなに困難な旅の中でも、驚くほど落ち着いていました。自分が危険なのに周囲の人々や風景を眺めたり、自分自身のことをも客観的に見つめる目を持っていました。
 冷静沈着、感受性豊かで肝が座り、勇敢で情に厚く繊細で…。そんな彼女の性格を一言ではなかなかまとめ切れませんが、人柄を窺(うかが)わせる場面は日本旅行記にもたくさん登場します。
 たとえば手ノ子(山形県飯豊町)駅逓の場面。人々の親切と金銭に卑しくない態度に深く心打たれたバードは、「私は日本を思い出す限り、いつまでもあなた方を忘れないでしょう」と伝えて別れを告げました。
 たとえば米代川(よねしろがわ。秋田県北)の場面。記録的豪雨続きのため渡河禁止令が出ていた渦巻く激流を小舟で渡ったバードは、木の葉のように流されてきた大型屋形船に激突されかかりました。通訳の日本人青年イトーは死を覚悟して顔面蒼白でしたが、バードは屋形船の乗客のことが心配の余り自分に迫る危機を何とも思わず、ただイトーの様子を「おかしく」眺めるだけでした(屋形船は船頭8人が遭難、乗客の安否は不明)。
 間一髪で命を落としていたほどのピンチだったにもかかわらずバードは、その日の旅の「唯一の獲物」と称して途中どこかで百合の花を摘み取り、宿の主人にプレゼントしました。
 またたとえば大嵐の津軽海峡を小型蒸気船で函館に渡ったバードは、吹き荒(すさ)ぶ風と豪雨と雷に“北海の荒ぶる声たち”を聴き、故郷の嵐を想い起こして<自分を歓迎してくれている>と嬉しがっています。
 こうした姿勢は、彼女の生れつきの資質と、キリスト教信仰が合わさって培われたのでしょうか。
 バードは49歳の時(1881年3月)、亡き妹ヘンリエックの侍医をしていたジョン・ビショップ博士と結婚しました(彼女にとって唯一度の結婚)。しかし夫は5年足らずで病没。もちろん旅行作家「イサベラ・L・バード」の名はずっと前から欧米知識人社会に知られていましたが、バードは以後も「ビショップ夫人」を名乗り続けました。こんなところにも、彼女の人柄の一端が表れているのかもしれません。
 バードはその後、亡き夫と妹を偲び、カシミールのスリナガルという所に「ジョン・ビショップ記念病院」を、アムリッツァルという所に「ヘンリエッタ・バード記念病院」を創設しています。

−バードの仕事と評価−

 バードの著作の幾つかは、出版当時からベストセラーとなりました。自身が著名な旅行作家だった彼女は、欧米各国の著名人・知識人・有力者たちと面識や交流がありました。
 バードの旅と記録の実績はイギリス国家(大英帝国)からも認められ、1891年(明治24年)、王立スコットランド地理学協会の特別会員に選ばれました。翌年には王立地理学協会(ロンドン)の特別会員に迎えられています。女性として初の特別会員の一人でした。 1893年(明治26年)には、ヴィクトリア女王への謁見を許されました。
 バードは探検家や旅行作家として地理学に貢献しただけでなく、日清戦争前後の朝鮮半島情勢を報道写真家兼ジャーナリストとして取材し、新聞に寄稿しました。日本によって謀殺された閔妃(ミンピ:朝鮮国王・高宗の王妃)とは、親しい友人関係まで築いていました。歴史的現場の中枢近くまで食い込んで、世界に伝え得る立場にあったといえるでしょう。
 彼女の活動には更に、イギリス政府の“お墨付き”を得た軍事外交情報エージェントの性格も窺(うかが)えるそうです(京都大学大学院教授の金坂清則さんの研究によります)。バードはまた、前述したように、熱心で有力なキリスト教医療伝道・福祉活動の支援者でもありました。
 こうしてバードは様々な方面で活躍しましたが、彼女が遺した著作や原稿は、単なる旅行記以上の「歴史資料」としても、貴重な記録となっているのです。


2 アジアのアルカディア

−『日本奥地紀行とは』−

 バードは明治11年(1878)5月から12月にかけて横浜〜東京〜北関東〜会津〜越後〜山形〜秋田〜青森〜北海道と関西などを旅し、行く先々で郷里の妹へニー(ヘンリエッタ・バード)宛てに手紙を綴りました。
 これをもとに出版した旅行記が、『Unbeaten Tracks in Japan』(アンビートン トラックス イン ジャパン。日本の未踏の道筋。1880年、上下2巻)です。1ヵ月で3回も増刷するほどの人気を博し、旅行作家バードの名を更に高めたといわれます。
 4年後、この本のうち関西方面などの部分を除き、一般の読者にとっては煩雑すぎると思われそうな記述もカットした“短縮普及版”(1巻本)が出版されました。
それから約90年後の1973年(昭和48年)、この普及版を日本語に訳して出版されたのが、『日本奥地紀行』(平凡社・東洋文庫)です。
 邦訳者の高梨健吉さん(慶応大学名誉教授)は山形県置賜地方の小松町(今の川西町小松)に生まれ、「日本に来て日本のことを記述した人の本を調べる勉強がしたくて」、大学で英語学を専攻。チェンバレンという日本学者の著書を通じ、バードに興味を持ったそうです。
 昭和の戦後、古本屋でバードの日本旅行記(普及版)を手に入れ読み終えた高梨さんは、バードが故郷の小松を通って大変気に入っていたことや、小松を含む置賜盆地(バードは「米沢の平野」と表現)が「アジアのアルカディア」と激賞されていたことを知りました。余りに誉められ過ぎの気がしてか、「面映ゆい(照れくさいような)文章だった」と後に書いています。 
 バードの日本旅行記については、もちろん原文で読んでいた専門家の方々もいました。一部を翻訳したり、ほぼ全訳出版したケースもありました。最近では、“完全版”全体を邦訳刊行する動きも出ています。
 しかし、最も早い時期に分かりやすい文章で訳出され、最もポピュラーに読みつがれてきたのは、『日本奥地紀行』でした。短縮1巻本ではありますが、私たち日本の一般読者の多くにとってはこの『日本奥地紀行』こそ、バードの世界と出会う最初の道標だったといって良いでしょう。


−“アルカディア”への難関「十三峠越え」−

 北日本旅行のバードが山形県置賜地方に最初の一歩を印したのが、「十三峠(じゅうさんとうげ)越え」の道でした。
 越後下関(新潟県関川村)から玉川(山形県小国町)〜小国(同)〜手ノ子(飯豊町)などを経て小松(川西町)に進むには、背骨のような山脈を越えなければなりません。奥深い飯豊山系の北につながる、山道ルートです。 越後側から順にいうと、「鷹巣」「榎」「大里(おおり)」「萱(かや)」(または「萱野」とも)「朴ノ木(ほうのき)」「高鼻」「貝淵」「黒沢」「桜」「才ノ頭(さいのかみ)」「大久保」「宇津」「諏訪」という大小13の峠が含まれ、一般に「十三峠」と総称されます。 この道は越後と米沢城下(山形県米沢市)を結んだ旧米沢街道の一部で、米沢側(置賜側)からは越後街道と呼びました。近年、旧街道の保存整備や“地域興し”をしている人々の間では「越後米沢街道」と通称されています。どちらから進むにしても、大変な難路でした。
 バードはこの十三峠越え区間を、明治11年7月11日から13日にかけて、歩いたり馬や牛に乗ったりして踏破しました。ほぼ半分が、土砂降りの中での移動でした。この間の彼女の記述には地名の前後関係などに多くの矛盾が見られ、疲労困憊(ひろうこんぱい)して記憶が混乱したり、日付感覚がマヒしたのではないかとさえ想像されます。
 そんな苦難をくぐり抜けてようやく辿りついたのが、米沢の平野(置賜盆地)でした。十三峠については、本ウェブサイトの「越後米沢街道十三峠」でも詳しく紹介していますので、御覧ください。


−アジアのアルカディア「米沢平野」−

 「十三峠」最後の諏訪峠を下ったバードは、小松の町を含む「米沢の平野」(置賜盆地のこと)をとても気に入り、次のように表現しました(書いたのは、小松の次の宿泊地の上山です)。「米沢の平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には人々がしばしば訪れる湯治場の赤湯があって、まったくエデンの園である。(略)豊饒(ほうじょう)にして微笑む(ほほえむ)大地であり、アジアのアルカディアである」「繁栄し、自立し、その豊かな大地のすべては、それを耕す人々に属し、圧制から解き放たれている。これは、専制政治下にあるアジアの中では注目に値する光景だ」「美しさ、勤勉、安楽に満ちた魅惑的な地域」「どこを見渡しても豊かで美しい農村」−−。

 「アルカディア」というのは、ギリシアに実在する地域名です。ギリシア神話世界の神々の故郷の一つとされ、ヨーロッパの人々にとっては古くから、憧れを込めた「牧歌的楽郷」の代名詞のようになってきました。バードは、「エデンの園」なと様々な言葉を尽くして置賜盆地の素晴らしさを誉め挙げただけでなく、楽土の象徴ともいうべき「アルカディア」に重ねたのでした。
 ちなみに「エデンの園」は人間が神の懐にあった世界=神と一緒に暮らしていた世界でもありますが、この言葉をバードが北日本旅行記の中で使ったのも、ここ置賜盆地の場面しかありません。ほかには唯一、北海道・礼文華(れぶんげ)山道から眺めた壮大な光景を「Paradise(楽園)」と表現しているだけです(「P」と大文字にすると、「エデンの園」も意味するそうです)。
 ともかく、バードが置賜盆地に、北日本の旅全体を通じて最大級の賛辞を贈っているのは間違いないでしょう。なぜそんなに誉め讃えたのでしょうか。

−置賜盆地をアルカディアに重ねた理由−

 バードの足取りと当時の置賜盆地の様子を突き合わせると、幾つかの背景が想像されます。そしてここには、彼女が“アジアのアルカディア”を<何処から>眺めたのかというテーマも絡んできます。

1.バードは脊椎に病を抱える身で、奥羽山脈横断の「十三峠越え」を果たしました。この区間で初めて置賜盆地が目に飛び込んだ宇津峠 (12番目の峠)の場面に、彼女はこう書いています。「その頂上から 私は、歓び迎えてくれるような陽光の中、米沢の気高い平野を満ち  足りた思いで見下ろすことができた」(一部意訳)。
 実際は最高地点という意味での頂上からは見えませんが、確かに  盆地の一部が突然視界に入るポイントがあります。そこから垣間見  た光り輝く風景は、険しい山越え区間の終わりが近いことを告げ、  疲労困憊だったバードの心身に感動的だったでしょう。“アルカデ  ィア”の第一印象は、この時すでに芽生えたのかもしれません。


2.最後(13番目)の諏訪峠は標高も低く比較的楽なのですが、ここを越えると眼前に置賜盆地が広がります。宇津峠を下った後は盆地は見えませんので、<ついに山越えが終わった>光景は、更に間近に感動的だったことでしょう。“アルカディア”の印象は、この時に大きく膨らんだとも考えられます。
 バードは以前から、チャールズ・ヘンリー・ダラス※という人が書いた『置賜県収録』という短い地誌のようなものを読んでいました。これが知識の面でも、<繁栄する地域>の印象を予めインプットしていたのかもしれません。

※チャールズ・ヘンリー・ダラス(1842-1894)イギリスのロンドンで生まれる。明治4年10月、米沢興譲館洋学舎(現米沢興譲館高校)に全国で四番目の外国人教師として迎えられる。探究心旺盛な教養人であり、米沢牛を全国に知らしめた恩人。国際的結社のフリーメーソン横浜第二代支部長でもあった。

3.喜びと安堵感で諏訪峠を下り荷を解いたのは、美しい小松の町の、旧“本陣格”だった快適な宿でした。小松を発って赤湯温泉方面に向かったバードの目に、置賜盆地中央部の光景が展開して行きます。周囲を飯豊や吾妻や蔵王につながる山々に囲まれ、だだっ広くもなく狭過ぎることもなく程よい広がりの田園地帯に集落が点在する様子は、今でも素晴らしい風景です。
 おまけに小松から先の旅は(正確には市野野(いちのの)を出て以降の旅は)、十三峠越えのほぼ半分が土砂降り続きだったのとは対照的に、からっとした晴天の「快適な夏の日」でした。

4.バードが置賜盆地の人々の暮らしぶりを「アジアの専制政治」との対比で見ている点も重要でしょう。日本の他の農山村との比較だけなら、美しさは讃えても「アジアのアルカディア」まで登場するでしょうか。
 当時の東洋世界の大半は、“アジア的専制”とも呼ばれる体制下にありました。これが念頭にあったからこそ、<何とこれは!>と感激し、まるでここはアジアの中のアルカディアだ!>と評したのだと思われます。彼女の目に多くの小作農民の存在が見えなかったとすれば、つまり「地主」と「小作人」についての予備知識がなかったとすれば、<農民たちは自立し、豊かな楽土を営んでいる>と映っても不思議ではないでしょう。

5.江戸時代の上杉氏は、会津120万石〜米沢30万石〜米沢15万石と石高を減らされたにもかかわらず、上杉謙信以来の“誇り”を失うことなく、大大名並みの数の家臣をほとんど減らしませんでした。大きなリストラをしないで抱え続け、財政改革と質素倹約に努めたのです。
 このため“貧乏藩”のイメージが強いのですが、何度かの大飢饉の時に一人の餓死者も出さなかったといわれています。全くゼロだったかどうかはともかく、日頃の備荒対策(凶作への備え)や「かてもの」(普段の主要な食材以外で食糧にできる山野の恵み)の知恵などもあってか、見事にピンチを乗り越えたのは事実でした。
 米沢藩領(ほぼ置賜地方全域を含む)にはまた、草木にも魂(たましい)があるのを感じ取り供養する「草木塔」(そうもくとう)という異色の石碑群が、たくさん建立されてきました。「草木塔」については本ウェブサイトの「草木塔」の項で詳しく紹介していますので御覧ください。
 こうした風土と人々の心構えや心持ちを考えると、これに1〜4までの要因も全て合わさって、バードが置賜盆地に「アルカディア」を重ね見る背景になったのかもしれません。

3 「アルカディア」のメッセージ力

 バードが「アジアのアルカディア」を何処で見たのか、場所として一つに特定することはできません。しかし小松を含む今の川西町域での印象と、川西町域からの風景が大きなインパクトになったのは確かでしょう。川西町埋蔵文化財資料展示室の前庭に昭和60年(1985)9月、「イサベラ・バード記念塔」が建てられました。彼女にちなんだものでは、山形県北部の金山町にある昭和53年(1978)11月建立の記念碑に次いで早い時期のものです(ちなみに金山町も、バードに“ロマンチックな町”と称賛されています)。
 置賜盆地の北端に位置する南陽市の公共温泉保養施設「ハイジアパーク南陽」(第3セクター)には、ロビー奥にバードの記念コーナーが併設されています。もちろん<赤湯温泉(南陽市)を含む置賜盆地を“アルカディア”とまで絶賛してもらった>ことにちなむものですが、「ハイジア」はギリシア神話の医神アスクレピオスの娘(健康の女神)ですから、施設名自体、やはりアルカディアに触発された命名でしょう。
 記念コーナーには、バードの著作の原書や挿し絵、彼女が中国などで撮影した写真や使用した「旅行許可証」、ビクトリア朝時代の英国女性の衣服や旅道具など、<よくこれだけ集めたものだ>と感心するほどの資料が収集展示されています。スペースは小さいものの、こうした常設展示場は全国初で、おそらく今も唯一ではないでしょうか。

 “アジアのアルカディア”は山形県内陸南部の置賜盆地を指した表現ですが、この言葉は全県に浸透し、1世紀以上の星霜を経て山形県の第7次総合開発計画「新アルカディア構想」に採用されました。同構想には、森林や大地など自然環境との調和も、大事な柱の一つに盛り込んであります。 21世紀に向けて描かれた“楽郷”作りの夢とグランドデザインに、バードの心象がメッセージを伝えたといえるかもしれません。
 この構想に基づいて平成3年(1991)、山形県立自然博物園が開園しました(西村山郡西川町大字志津)。豊かな生態系を残す月山(がっさん)山系・姥ヶ岳(うばがたけ)南麓から中腹にかけての、約245ヘクタール。広大なエリアを自然体験と自然学習のフィールドとして整備し、拠点施設のネイチャーセンターを設置したのです。
 このエリアは、山形県内陸部と庄内地方(日本海側)を結ぶ出羽三山信仰の道「六十里越街道」ルート沿いでもありました。平成9年以降、民間の有志と関連自治体、民俗研究者たちが協力して、六十里越街道の旧道を整備し活用する取り組みが進みました。
 これに触発され、六十里越街道や湯殿山信仰圏の自然風土を愛する鶴岡市朝日地区の住民有志や商工会員などをメンバーに「アルゴディア研究会」が誕生しました。
会の名前は、方言の「歩ごでゃ(歩こうよ)」に、「アルカディア」を重ねたそうです。
 一方、山形県は新アルカディア構想の精神にそって「アルカディア街道復興計画」を策定。文化的・歴史的価値が大きい古道を現代に甦らせ活かして行こうと、県内の多くの主要街道と地域を対象に指定しました(六十里越も含まれ、志津はモデル地区指定されています)。
 こうして、イサベラ・バードが残した「アルカディアというメッセージ」は、新たな姿で今に息づいているのです。


4 バードに関わる「道あるき」「地域づくり」

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 バードの北日本旅行ルート沿いには、旧道の保存整備やウォーキング、交流、地域づくりなどの活動組織がたくさんあります。もちろんバードだけがテーマとは限りませんが、何らかの形でバードに刺激を受けたり、パワーをもらっているケースも少なくありません。
エリアを山形県置賜地方に絞ると、「十三峠」のうち「大里」(小国町)「萱野」(同)「黒沢」(同)「宇津」(飯豊町)「諏訪」(川西町)の5つの峠について、調査・保存や歩く会、敷石発
掘整備などの組織が活動しています(大里峠が新潟・山形県境です)。
これらの組織や行政、観光協会が協力して平成20年、「越後米沢街道・十三峠交流会」が設立されました。事務局は、小国町のNPO法人「ここ掘れ和ん話ん探検隊」が担当しています。



 置賜以外の山形県域では、上山市や金山町でも、バードの旅に触発された「街づくり」活動を進めてきました。前述の「六十里越街道」沿い(鶴岡市朝日&西川町)の取り組みも、バードは通っていませんが、「アルカディア」を介してつながっているといえるでしょう。
 これらの活動状況については、各自治体に照会ください。


〇掲載日 平成24年1月
  
〇執筆者 伊藤孝博(いとう・たかひろ)

略歴:1948年、福島県福島市生まれ。
通信記者を経て、1984年から山形県米沢市在住。主な著書に『イザベラ・バード紀行「日本奥地紀行」の謎を読む』『イザベラ・バードよりみち道中記』『賢治からの切符』『とうほく廃線紀行』(共著)『奥州街道』『義経 北行伝説の旅』『江戸「東北旅日記」案内』『東北ふしぎ探訪』『六十里越街道』『北海道「海」の人国記』(以上すべて無明舎出版)などがある。

〇編集  勝見弘一(置賜文化フォーラム)

〇写真提供  南陽市
         越後米沢街道・十三峠交流会         

〇関連施設  ハイジアパーク南陽 
         〒990−2233 山形県南陽市上野1855-10
         TEL0238-45-2200 FAX0238-45-3006
         【営業時間】10:00〜21:30
         【休館日】 毎週月曜(祝日は休まず営業)
         【本館入館・入浴料】中高生〜大人…300円
                   小学生   …200円
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