伊達氏が室町時代から162年の間、高畠の領主として統治した時代に活躍した人物とエピソードをご紹介します。 1.奥州の雄藩としての地位を築きあげた伊達家 建久3年(1192)、鎌倉幕府誕生とともに、置賜の地は長井氏によって支配されていました。しかし、天授6年(1380)、伊達家八代当主伊達宗遠(だてむねとう)が長井氏を滅亡させ、以降十四代稙宗(たねむね)に至る162年間、屋代(高畑)が伊達家支配の拠点とされました。 なぜ屋代【高畑(たかばたけ)】が拠点に…
高畑を拠点に定めた宗遠は、現在の宮城、福島県の一部である大崎、信夫、刈田地区のほか、柴田、伊具を支配しました。また、時の権力者であった足利政権とも交流を図り、中央への貢献に務めたのです。 本拠地となった高畑城は、承安年間(1171〜)藤原秀衡(ひでひら)のいとこ樋瓜五郎季衡(ひづめごろうすえひら)の築城と伝えられ、形状がつり鐘に似ているため、別名を鐘ヶ城と呼ばれていました。 現在は、高畠小学校の校門前にあるお堀だけが当時を偲ばせます。 2.二人の伊達政宗 〜伊達政宗が二人いることをご存知ですか〜 伊達政宗といえば、独眼竜の異名で知られる十七代伊達政宗が有名ですが、その十七代伊達政宗(貞山)の名は、伊達家中興の祖、九代政宗(儀山)の名にあやかり命名されたといわれています。 伊達家中興の祖、九代政宗(儀山)、そして、戦国の世を「独眼竜」の異名で駆け抜け奥羽の大大名となり仙台市の基礎を造った十七代政宗。 二人の政宗が、ここ高畠の地で活躍したのをご存知ですか… 九代 伊達 政宗(儀山)
八代伊達宗遠の嫡子、第九代伊達政宗は、柴田、名取、宮城などへ進出し、これにより伊達氏の領国範囲が、ほぼ決まりました。屋代(高畑)が名実ともに置賜の中心城となったのです。また政宗は、応永4年(1397)に上洛し、将軍足利義満の謁見を許されました。 文武両道に優れた彼は、和歌の分野でも才能を発揮しました。特に『新続古今集』に収められている「山家の雪」、「山家霧」は有名で、二井宿峠から置賜盆地を見下ろし、詠んだ歌と言われています。 ●山家の雪 中々につづら折なる道絶えて 雪に隣の近き山里 ●山家霧 山合の霧はさながら海に吠て 波かと聞けば松風の音 応永12年(1405)9月、53歳で死去した儀山政宗の墓は野手倉と高畠町の資福寺跡にあり、野手倉にあるお墓の左側には足利義満の生母の妹である正室、紀氏が眠っています。 十七代 伊達 政宗(貞山) 第十六代伊達輝宗の嫡子第十七代政宗は幼名を「梵天丸」といい、5歳の時右眼を疱瘡で失いましたが、乳母の喜多、守役の片倉小十郎たちのもとで成長しました。 少年時代の政宗は、糠野目夏刈にあった資福寺にて、師匠である虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚による厳しい教えのもと過ごしたといわれています。 資福寺跡に隣接する場所には、政宗館や夏刈城といった館跡のなごりをとどめてており、後に重臣となる片倉小十郎、伊達成実らとともに少年時代を過ごしたといわれています。 十七代政宗と資福寺の逸話 梵天丸が乳母の喜多とともに資福寺に参拝した際、父の輝宗も息子を鍛えるべく、虎哉宗乙和尚を招いていて、たまたま資福寺に投宿していました。 参観した梵天丸は、不動明王が破邪顕正(はじゃけんしょう 仏語。邪説・邪道を打ち破って、正しい道理を明らかにすること)の神と聞き、「ではなぜ、こんな恐ろしい顔をなさっているのか?」と、喜多に尋ねます。喜多が困っていると虎哉宗乙和尚が、「恐ろしい顔は悪を懲らしめる為じゃ。不動明王はやさしい仏さまじゃ。外見と異なり慈悲深い。とくとごろうじよ!」と答えます。 それを聞いて、「梵天丸も、かくありたい…(自分もそうなりたい)」とつぶやいたのでした。 「梵天丸も、かくありたい…」という言葉は、NHK大河ドラマ独眼竜政宗でも名言として取り上げられ当時の流行語となりました。 十七代政宗と亀岡文殊の逸話
永禄8年(1565)貞山政宗の父、伊達輝宗と結婚したばかりの義姫(最上義光の妹)は、文武の才たかく、忠孝の誉れある男子の誕生を願い、亀岡文殊堂の近くの行者、長海上人を訪れ、湯殿山に祈願を頼みました。 長海上人は湯殿山に登山して祈願し、その証拠として幣束(へいそく)を湯殿の湯に浸して持ち帰り、義姫の寝所の屋根に安置しました。 ある夜、白髪の老僧が義姫の夢枕に現れ、「姫の胎内に宿を借りたい」と頼みます。驚いた義姫は「夫の許しを受けてからご返事をいたします」と丁重に答え、即答しませんでした。 このことを輝宗に告げると「これは瑞夢(ずいむ)である。再びこのようなことがあれば許すように」と喜びながら義姫に命じました。 翌夜、再び老僧が夢枕に現れると、義姫は老僧の願いどおりに胎内に宿を借すことをつたえ、老僧は義姫に幣束を授け「胎育し給え」と言って立ち去りました。 この瑞夢があってからまもなく、義姫はめでたく懐妊し、男子(政宗)が誕生しました。修験道では幣束のことを「梵天」といいます。伊達政宗の幼名「梵天丸」の由来は、この事から名づけられたといわれています。 3.独眼竜政宗が活躍する土台を作った二人 十六代 伊達輝宗
伊達家は、父子抗争が絶えない状況にありましたが、動乱の戦国時代のなかで、輝宗は、たくみに次世代への橋渡しを成し遂げたひとりです。働き盛りのうちに家督を政宗に譲り、みずから後見人にまわりました。 天正13年(1585)、輝宗は、戦交渉に訪れた畠山義継(当時二本松地方を統治していた)に突然拉致され、42歳で不慮の死を遂げました。 虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚 資福寺の住職であった虎哉和尚は、幼名を虎千代といい、住まいでの寺から聞える読経を全て暗誦したといわれ、仏教に強い関心を示しました。 「心頭滅却すれば火も亦涼し」の名文句を残した快川(かいせん)和尚の門をたたき、名を虎哉と改めました。 虎哉和尚と資福寺との結びつきは、十六代当主輝宗が政宗の師匠に招いたことに始まります。時に虎哉和尚43歳のことでした。 4.独眼竜政宗勉学の地「資福寺」
伊達氏は、この地に夏刈城を築き、資福寺を帰依寺、学問寺として保護しました。 現在は、「臨済宗妙心寺派 慈雲山 資福禅寺」として伊達政宗の移封とともに仙台市に移り、初夏は500株以上の紫陽花が咲き、「あじさい寺」として多くの観光客が訪れます。 また、夏刈の資福寺跡には、九代伊達政宗(儀山)と正室紀氏、十七代政宗の父輝宗とその重臣遠藤山城守基信のお墓が今も残っています。 高畠で活躍した伊達氏の系譜 ◆八代 伊達宗遠 ◆九代 伊達政宗(儀山) ◆十代 伊達氏宗 ◆十一代 伊達持宗 ◆十二代 伊達成宗 ◆十三代 伊達尚宗 ◆十四代 伊達稙宗 ◆十五代 伊達晴宗 ◆十六代 伊達輝宗 ◆十七代 伊達政宗(貞山) ○掲載日 平成23年 6月 ○作成者 小林利裕 (一般社団法人 高畠町観光協会) ○関連ページ 高畠町観光協会 戦国観光 やまがた情報局 印刷用PDFはこちら |
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