―執筆にあたって―
「志を貫く」ということを考えます。私は小さい頃、画家になりたい夢があり絵ばかり描いてきましたが、「画家で生計を立てることは困難であるから諦めるように」との親の意見に素直に従い、自分の志を閉ざしてきた学生時代を思い出します。高校時代の美術部を最後に、描くことをやめていました。しかし、時折、絵画などの美術作品に触れる機会があると絵を描くという志を思い出します。感動的な作品に出会うと、その作品を鑑賞するだけではなく、その作家の生き方を知りたくなります。2012年11月、私は長年閉ざしてきた絵心を呼び覚ます衝撃的な絵画に出会いました。米沢市で開催された「福王寺法林先生を偲ぶ会」での、先生の絵画との出会いです。 2012年2月21日92歳でご逝去された福王寺法林先生は、山形県名誉県民、米沢市名誉市民、東京都三鷹市名誉市民であり、文化勲章を受章していらっしゃる日本画家で、ヒマラヤの画家として有名です。先生のヒマラヤの絵を初めて見た時の心の衝撃は、ものすごいものでした。鳥肌が立ち、迫ってくる絵画の迫力に圧倒されて、ただ茫然と立ち尽くしたことを覚えています。山々の迫力と見たこともない色使い、何という力強さなのでしょうか。美術評論家ではないので、絵について評価するなど私には出来ないことなのですが、これだけ心を揺さぶられ、惹きつけられる絵を描く福王寺法林先生の生き方を知りたいと強く思いました。なぜこの福王寺法林先生の絵画は、こんなにも力強く、心に迫る感動があるのかを、先生の生い立ちから、生き様を通して「置賜の宝」としてご紹介したいと思います。 置賜文化フォーラム 編集員 東野真由美
1 画家への志 福王寺法林先生の本名は福王寺雄一で、大正9年(1920年)11月10日に、山形県米沢市矢来町に父・政雄、母・せんの長男として生まれます。8人きょうだいの2番目で、ただ一人の男子でした。福王寺家は、米沢上杉藩の槍術師範の家系で、先祖は、新潟県小千谷下倉山城の初代城主福王寺尊重だったそうです。上杉謙信の時に、福王寺家は上杉家と養子縁組をし、その後、上杉藩の移動にともない一緒に米沢へ移ってきました。
小学1年生の時に、父親と猟にでかけ、銃の暴発で左目の視力を失います。通常なら片方の視力を失うことで、意気消沈して生きる力が削がれそうですが、雄一少年は、左目を失った事件があってから、負けず嫌いの根性はますます強くなり、たくましくなったそうです。絵を描くことが好きな雄一少年は、小学2年生から狩野派の老画家上村廣成氏に学ぶようになりました。絵を志した当初からハンディがあったにも関わらず、この負けず嫌いの根性が人一倍の努力をさせたのです。 すばらしいヒマラヤの絵画を描いた画家が隻眼(せきがん・片目の視力を失っている状態)だったことを今でも知らない方もいます。ご自分のハンディは、人前には出さないし、ぐちなど一切言わない方だったのです。先生の絵画があまりにも壮大で完璧なので、最初この事実を聞いても信じられない思いでした。多少ですが、学生時代に美術部で絵を描いていた経験があるので少しわかるのですが、片方の目を閉じると遠近感がつかめず、空間把握などできなくなります。それなのに、法林先生は隻眼であるにも関わらず、双眼で絵を描く人以上の絵を描くのです。先生にとっては、絵を描くことにおいて隻眼であろうと双眼であろうと関係などない、絵が良いか悪いかだけだという思いだったのです。技術のすばらしさに感動しますが、それ以上にハンディを背負いながらも、言い訳やぐちなど一切言わず、人一倍の努力をして前向きに生きた法林先生の生き方にこそ感動します。法林絵画の力強さは、何事をも乗り越え生きる強さが表れたものだったのです。 2 下積み時代から中国戦線 法林先生は、画家を志して16歳で上京します。当初は、すぐに絵が売れるわけはなく、東京でどん底の生活から画家を目指します。人の似顔絵を描いたり、映画の看板を描いたり、俳優の顔を描くなど、多少のお金を稼ぎながら、おからを味噌でといて食する生活で、下積み時代を過ごしたのです。 そんな中、昭和16年(1941年)法林先生21歳の時に、戦争に召集されました。戦争へ行く前に、先生は有り金をはたいて、高価な岩絵具を買い込み、縁の下の土の中に埋めていったのだそうです。「戦争から生きて帰ってきて、画家として必ずこの絵具を使うのだ」と、画家になる志を貫くため、必ず生還するという意思固めをしたのです。 中国戦線に配属された先生の戦争体験は壮絶なものです。死んでしまった方が楽という場面が多くあったそうです。敵に包囲されて、泥沼に浸ったまま一週間我慢したことや、敗戦を迎えてからの逃避行の際、軍の靴が破れ、足の骨が露出しても必至で歩き続けたことなど、普通なら挫折し死んでいたかもしれない場面を乗り越えてきています。辛い時にふるいたったのは、「あの絵具を使わないで死んでたまるか」という思いだったのだそうです。生来の負けず嫌いと画家魂が法林先生を戦争から生還させたのでした。 この戦争体験をされた先生は、後にインタビューで、通常では困難とも思えるヒマラヤスケッチ取材なども、「あの戦争体験を思えば仕事の苦労や努力は何ともない」とコメントしています。 3 新進の日本画家
昭和24年(1949年)第34回日本美術院展覧会(以下「院展」と略)に「山村風景」を出品し初入選をはたします。翌年には、「朴青葉」を院展に出品しています。日本画らしい画風で、色合いが柔らかく落ち着いた作品です。後のインタビューで先生は、この絵は、「朴の木を包み込んだ水分を含んだ空気感を描いた」とコメントしています。絵を描くのではなく、対象物の空気を描くということは、先生の絵を描くことの中で大切にしておられることで、ヒマラヤシリーズを含め生涯続きます。
法林先生は、デッサンの鬼ともよばれたようで、普通の画家なら10枚ほどの素画で作品にとりかかるようですが、先生は人の10倍、100枚近いデッサンをしたそうです。努力家でもあり、絵を描くことが本当に好きだった姿が浮かびます。 「朝」ではじめての受賞をしてから、「かりん」、「朴の木」、「落葉」、「麦」、「岩の石仏」、「北の海」と毎年次々と新作を発表しては院展で受賞をし、若手日本画家として福王寺法林の名前を定着させました。初期の画風の時代です。 4 法林絵画の二面性
5 ヒマラヤへの情熱 ヒマラヤをテーマにしている画家は他にもいらっしゃるそうですが、連作でヒマラヤを描き続けた画家は法林先生だけだそうです。
昭和49年(1974年)最初に描いた「ヒマラヤ」は、東京三越で開催されたヒマラヤ展示会で展示され、その時にネパールの王様が訪れました。先生は、その絵をとても気に入られた王様に、大作のヒマラヤの絵画を、すぐさま差し上げると約束したのだそうです。そして、そのお返しに、法林先生がヒマラヤスケッチのためネパールを訪れた際、王様のヘリコプターを自由に使えるようにしてもらったというのです。こうして、その後のヒマラヤ絵画の制作活動に大きな支援者が現れたのです。
日本の彫刻家である平櫛田中(ひらくしでんちゅう)氏は、「わしがやらねば誰がやる。今やらねばいつできる。」と語りました。法林先生は、この言葉を非常に好み、ヒマラヤはまさに、この言葉の絶好の対象として、困難な「ヒマラヤを描く」ということを自分のライフワークとしていったのです。
6 生きた絵画 法林先生の御子息である福王寺一彦先生も法林先生と同じ画家の道を歩んでおられます。福王寺法林先生を偲ぶ会(2012年11月米沢市にて開催)のあいさつの中で、法林先生の訓えを語って下さいました。
私は、先生がこの世を去られてから、先生の絵画を初めて観ました。先生は亡くなられていましたが、先生の絵は生きていました。生きた山々の絵画に出会った感動は、一生私の心に残ります。広がりがあり、温かく、力強い、観る人を絵に引き込み、深い感動を残す絵画を描かれた先生の偉業に、心から感服をいたします。福王寺法林先生は、これからも絵画の中に生き続け、観る人々に力強いメッセージと心に刻まれる感動を与えてゆくことでしょう。 〇掲載日 平成25年5月 ○監修 村野 隆男氏(米沢市文化課 課長) ○資料提供 福王寺一彦氏 神奈川県立近代美術館 東京国立近代美術館 彫刻の森美術館 福島県立美術館 米沢市上杉博物館 山形県 ○参考文献 「三彩」増刊No.365 福王寺法林Ⓒ1977年12月 福王寺法林展 図録Ⓒ1991年 「三彩」525号Ⓒ1991年6月 青の継承-福王寺法林・一彦おやこ展-米沢市上杉博物館Ⓒ2001年 福王寺法林・一彦展 発行)朝日新聞社Ⓒ2002年 文化勲章受章記念 福王寺法林展 発行Ⓒ2005年 ○関連ページ 福王寺一彦/福王寺法林/福王寺みどりこ(雅号 荒木みどりこ) 公式ホームページ ○執筆編集 東野真由美(置賜文化フォーラム編集員) 印刷用PDFは、こちら |
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