62ヒマラヤの画家 福王寺法林先生


―執筆にあたって―
 「志を貫く」ということを考えます。私は小さい頃、画家になりたい夢があり絵ばかり描いてきましたが、「画家で生計を立てることは困難であるから諦めるように」との親の意見に素直に従い、自分の志を閉ざしてきた学生時代を思い出します。高校時代の美術部を最後に、描くことをやめていました。しかし、時折、絵画などの美術作品に触れる機会があると絵を描くという志を思い出します。感動的な作品に出会うと、その作品を鑑賞するだけではなく、その作家の生き方を知りたくなります。2012年11月、私は長年閉ざしてきた絵心を呼び覚ます衝撃的な絵画に出会いました。米沢市で開催された「福王寺法林先生を偲ぶ会」での、先生の絵画との出会いです。
  2012年2月21日92歳でご逝去された福王寺法林先生は、山形県名誉県民、米沢市名誉市民、東京都三鷹市名誉市民であり、文化勲章を受章していらっしゃる日本画家で、ヒマラヤの画家として有名です。先生のヒマラヤの絵を初めて見た時の心の衝撃は、ものすごいものでした。鳥肌が立ち、迫ってくる絵画の迫力に圧倒されて、ただ茫然と立ち尽くしたことを覚えています。山々の迫力と見たこともない色使い、何という力強さなのでしょうか。美術評論家ではないので、絵について評価するなど私には出来ないことなのですが、これだけ心を揺さぶられ、惹きつけられる絵を描く福王寺法林先生の生き方を知りたいと強く思いました。なぜこの福王寺法林先生の絵画は、こんなにも力強く、心に迫る感動があるのかを、先生の生い立ちから、生き様を通して「置賜の宝」としてご紹介したいと思います。
置賜文化フォーラム 編集員 東野真由美


1 画家への志

 福王寺法林先生の本名は福王寺雄一で、大正9年(1920年)11月10日に、山形県米沢市矢来町に父・政雄、母・せんの長男として生まれます。8人きょうだいの2番目で、ただ一人の男子でした。福王寺家は、米沢上杉藩の槍術師範の家系で、先祖は、新潟県小千谷下倉山城の初代城主福王寺尊重だったそうです。上杉謙信の時に、福王寺家は上杉家と養子縁組をし、その後、上杉藩の移動にともない一緒に米沢へ移ってきました。

米沢の武徳殿剣道場にて、後列左から2人目
 子供のころから剣道や空手など武道をたしなみ、武家の血筋をひいているからなのか、負けず嫌いは人一倍でした。極端と思えるほどの場面もあったようで、子どもの頃に、炭火を手のひらに乗せて我慢くらべ競争をしたそうですが、自分の手が焼けただれても、他の少年が放り出すまで、絶対に負けないとがんばったそうです。
 小学1年生の時に、父親と猟にでかけ、銃の暴発で左目の視力を失います。通常なら片方の視力を失うことで、意気消沈して生きる力が削がれそうですが、雄一少年は、左目を失った事件があってから、負けず嫌いの根性はますます強くなり、たくましくなったそうです。絵を描くことが好きな雄一少年は、小学2年生から狩野派の老画家上村廣成氏に学ぶようになりました。絵を志した当初からハンディがあったにも関わらず、この負けず嫌いの根性が人一倍の努力をさせたのです。
 すばらしいヒマラヤの絵画を描いた画家が隻眼(せきがん・片目の視力を失っている状態)だったことを今でも知らない方もいます。ご自分のハンディは、人前には出さないし、ぐちなど一切言わない方だったのです。先生の絵画があまりにも壮大で完璧なので、最初この事実を聞いても信じられない思いでした。多少ですが、学生時代に美術部で絵を描いていた経験があるので少しわかるのですが、片方の目を閉じると遠近感がつかめず、空間把握などできなくなります。それなのに、法林先生は隻眼であるにも関わらず、双眼で絵を描く人以上の絵を描くのです。先生にとっては、絵を描くことにおいて隻眼であろうと双眼であろうと関係などない、絵が良いか悪いかだけだという思いだったのです。技術のすばらしさに感動しますが、それ以上にハンディを背負いながらも、言い訳やぐちなど一切言わず、人一倍の努力をして前向きに生きた法林先生の生き方にこそ感動します。法林絵画の力強さは、何事をも乗り越え生きる強さが表れたものだったのです。

2 下積み時代から中国戦線

 法林先生は、画家を志して16歳で上京します。当初は、すぐに絵が売れるわけはなく、東京でどん底の生活から画家を目指します。人の似顔絵を描いたり、映画の看板を描いたり、俳優の顔を描くなど、多少のお金を稼ぎながら、おからを味噌でといて食する生活で、下積み時代を過ごしたのです。
 そんな中、昭和16年(1941年)法林先生21歳の時に、戦争に召集されました。戦争へ行く前に、先生は有り金をはたいて、高価な岩絵具を買い込み、縁の下の土の中に埋めていったのだそうです。「戦争から生きて帰ってきて、画家として必ずこの絵具を使うのだ」と、画家になる志を貫くため、必ず生還するという意思固めをしたのです。
 中国戦線に配属された先生の戦争体験は壮絶なものです。死んでしまった方が楽という場面が多くあったそうです。敵に包囲されて、泥沼に浸ったまま一週間我慢したことや、敗戦を迎えてからの逃避行の際、軍の靴が破れ、足の骨が露出しても必至で歩き続けたことなど、普通なら挫折し死んでいたかもしれない場面を乗り越えてきています。辛い時にふるいたったのは、「あの絵具を使わないで死んでたまるか」という思いだったのだそうです。生来の負けず嫌いと画家魂が法林先生を戦争から生還させたのでした。
 この戦争体験をされた先生は、後にインタビューで、通常では困難とも思えるヒマラヤスケッチ取材なども、「あの戦争体験を思えば仕事の苦労や努力は何ともない」とコメントしています。

3 新進の日本画家


「朴青葉」 昭和25年(1950)
  227☓131(単位cm)
所蔵)山形県
 昭和21年(1946年)9月、26歳の時に復員し、山形県米沢市に帰りました。2年後、結婚されましたが、奥様となった愛子夫人が法林先生をだれよりも応援します。パーマ代だと渡されたこづかいを全て先生の絵具につぎ込み、また、手の指紋が無くなるまで、絵を描くための岩絵具の顔料を溶く手伝いをしたそうです。先生は、よき伴侶を得、血のにじむような人一倍の努力と絵の才能にて、絵画制作に没頭し、新進の日本画家としてどんどん新作を発表、作品を世に送り出してゆきます。
 昭和24年(1949年)第34回日本美術院展覧会(以下「院展」と略)に「山村風景」を出品し初入選をはたします。翌年には、「朴青葉」を院展に出品しています。日本画らしい画風で、色合いが柔らかく落ち着いた作品です。後のインタビューで先生は、この絵は、「朴の木を包み込んだ水分を含んだ空気感を描いた」とコメントしています。絵を描くのではなく、対象物の空気を描くということは、先生の絵を描くことの中で大切にしておられることで、ヒマラヤシリーズを含め生涯続きます。
 

「朝」 昭和30年(1955) 167☓215.5(単位cm)
第40回院展 奨励賞・白寿賞 受賞作品
所蔵)神奈川県立近代美術館
 昭和28年(1953年)33歳の時に米沢から東京都三鷹市に転居し、絵画制作の活動を進めます。そして昭和30年(1955年)35歳の時に、「朝」という作品を出品して、第40回院展で奨励賞、白寿賞を受賞します。この「朝」という作品は、貧しい生活感を取り入れた題材でしたが、朝3時に起きて、朝食前に一仕事をすることが日課だった先生の生活力のたくましさによって、ジメジメした陰湿な感じが一切しないことが法林画風のすばらしい点だそうです。後のインタビューで先生は、「朝は太陽が昇るという感じで一番好きな時であり、朝の空気が好きで、健康的なものを描きたかった」とコメントしています。
 法林先生は、デッサンの鬼ともよばれたようで、普通の画家なら10枚ほどの素画で作品にとりかかるようですが、先生は人の10倍、100枚近いデッサンをしたそうです。努力家でもあり、絵を描くことが本当に好きだった姿が浮かびます。
 「朝」ではじめての受賞をしてから、「かりん」、「朴の木」、「落葉」、「麦」、「岩の石仏」、「北の海」と毎年次々と新作を発表しては院展で受賞をし、若手日本画家として福王寺法林の名前を定着させました。初期の画風の時代です。

4 法林絵画の二面性


「島灯」 昭和39年(1964) 184.5☓272.5(単位cm)
所蔵)東京国立近代美術館
 画家として名が知られるようになり、個展も開催し、画家の基盤が固まってきた先生は、身近な自然や、生活に密着したモチーフを描いていたものから、だんだん遠くまで出かけスケッチ取材し、ヘリコプターなどを使った空中からの構図等、絵のモチーフが少しずつ大きなテーマに変わってゆきます。「島灯」、「漁村の明け方」、「日光」、「祈る高砂族」、「万博夜景」、「山腹の石仏」、「高砂族の舞」、「ガジュマルの木」、「臥神梅」などの作品が続きます。昭和46年(1971年)51歳の時、第56回院展に出品した「山腹の石仏」は内閣総理大臣賞を受賞しています。

「山腹の石仏」 昭和46年(1971) 364☓382(単位cm)
第56回院展 内閣総理大臣賞 受賞作品
所蔵)フジ・メディアホールディングス
 多くの美術評論家が法林先生の芸術は、男性的であると言っています。「東北生まれの粘り強い強靭さを加えた“豪”の気質が法林芸術の骨格の主流となっているが、豪快一辺倒ではなく、対極にある優しさと繊細さがあり、対比する二面性がありつつ、東洋的な人間味や精神性が加わり、より魅力あるものにしているのが法林絵画である」と美術評論家の植村鷹千代氏は評しています。先生は、植物を愛でる心優しい一面もお持ちだったそうで、家には多くの植物があり、福王寺家に行くと植物がみな生き返るように元気に育ったそうです。武家の血筋をひく負けず嫌いと、植物を思う優しさの両面が絵画に表れているのでしょうか。

「高砂族の舞」 昭和47年(1972) 182☓382(単位cm)
所蔵)米沢市上杉博物館
 先生は、自分の眼で確かめ、皮膚で感じたものでなければ決して描こうとしなかったといいます。これが、後に取り組むヒマラヤシリーズでの命がけの絵画制作につながってゆきます。昭和49年(1974年)法林先生54歳の時に、初めてネパール、ヒマラヤに取材旅行へ出かけ、第59回院展に、初のヒマラヤを題材とした作品「ヒマラヤ」を出品します。ここから、法林先生は、ヒマラヤをテーマに絵を描き続けます。ヒマラヤ連作シリーズがはじまるのです。

5 ヒマラヤへの情熱

 ヒマラヤをテーマにしている画家は他にもいらっしゃるそうですが、連作でヒマラヤを描き続けた画家は法林先生だけだそうです。

「斜平山」  154☓240(単位cm)
初期作品 制作年不明
所蔵)米沢市上杉博物館
先生が育った米沢周辺は、斜平、吾妻、飯豊、蔵王などの山々に囲まれており、山を見るのが好きな雄一少年は、小学2年生で絵を習い始めてから主に山を描いていたようです。このような山に囲まれた環境で育った先生は、小さい頃に、世界で一番高い山はヒマラヤだと聞いて、「いつかはその山を描いてやろう」と子ども心に決めていたそうです。
 昭和49年(1974年)最初に描いた「ヒマラヤ」は、東京三越で開催されたヒマラヤ展示会で展示され、その時にネパールの王様が訪れました。先生は、その絵をとても気に入られた王様に、大作のヒマラヤの絵画を、すぐさま差し上げると約束したのだそうです。そして、そのお返しに、法林先生がヒマラヤスケッチのためネパールを訪れた際、王様のヘリコプターを自由に使えるようにしてもらったというのです。こうして、その後のヒマラヤ絵画の制作活動に大きな支援者が現れたのです。

「バドガオンの月」 昭和57年(1982) 185☓367(単位cm) 所蔵)福島県立美術館



ヘリコプターからのスケッチの様子(昭和54年 1979)
 王様が支援者になったとはいえ、8000m級の山々であるヒマラヤを描くことは、現実問題としてそう簡単ではありません。自分の眼で確かめ、皮膚で感じないと絵を描くことをしなかった先生は、スケッチのため、厳しいヒマラヤの環境へどんどん入ってゆきます。ヘリコプターは7000m位まで飛行できるそうですが、空気が薄く、気温が低いので、登山用の羽毛服を着て、酸素吸入器とスケッチ用具を持ち、乗り込みます。先生は、空気を感じながらスケッチをするためヘリコプター右側のドアを開けたまま飛行をするのだそうです。最初のフライトでは、高度が高い空間の酸素不足で、気を失ってしまったそうで、

法林先生ヒマラヤスケッチの様子(昭和53年 1978)
もう少し酸素吸入が遅ければ、脳が侵されていたといいます。ヒマラヤ取材は、呼吸困難と高山病との闘いで命がけの仕事であり、後に先生は、「ヒマラヤを描くことは、絵を描くのと命を交換するような気持ちである」とコメントしています。
  日本の彫刻家である平櫛田中(ひらくしでんちゅう)氏は、「わしがやらねば誰がやる。今やらねばいつできる。」と語りました。法林先生は、この言葉を非常に好み、ヒマラヤはまさに、この言葉の絶好の対象として、困難な「ヒマラヤを描く」ということを自分のライフワークとしていったのです。

「月華夕照」ヒマラヤ 平成4年(1992) 237☓191(単位cm)
所蔵)米沢市上杉博物館
 山をモノとして見る描き方ではなく、山を精神として見、山もまた自分であると見て描いたのが法林先生のヒマラヤなのだそうです。美術評論家の植村鷹千代氏との対談の中で、「以前は、自分からヒマラヤに向かって挑戦していたけれど、今は自分がヒマラヤだと思って絵にぶつかっているのです。」とコメントしています。54歳からヒマラヤを描き続けて17年、先生71歳の時の言葉です。この時で9回ヒマラヤへ行っておられますが、「まだまだ未完成ですよ」とおっしゃっています。こからも危険を冒してヒマラヤへ行くのかという植村氏の問いに対して、先生はいとも簡単に「まだ、71歳ですから」と答えています。「朝太陽が昇った時の輝きとか、そびえたつ雄大な山の拡張などを、もっともっと自分のものにしたいと思っている」とコメントしているのです。この時すでに画家として成功し、すばらしい絵画をいくつも完成しているにも関わらず、「まだまだ」と絵画に取り組んでおられる姿には、前向きで、常にチャレンジし、自らの能力を高めようとする生きる姿勢を教えられます。年齢や経験に関係なく生涯成長し続けようとした意欲あふれる先生の“生”が、広がりのある躍動的な絵画になり、絵が生きたものとなって表現されているように思います。

6 生きた絵画

 法林先生の御子息である福王寺一彦先生も法林先生と同じ画家の道を歩んでおられます。福王寺法林先生を偲ぶ会(2012年11月米沢市にて開催)のあいさつの中で、法林先生の訓えを語って下さいました。

「ヒマラヤの朝」 平成15年(2003) 183☓230(単位cm)
所蔵)山形県
法林先生の御子息である福王寺一彦先生も法林先生と同じ画家の道を歩んでおられます。一彦先生は、平成24年(2012年)11月に開催された先生を偲ぶ会のあいさつの中で、法林先生の訓えを語って下さいました。一彦先生はヒマラヤ取材に同行して、法林先生のスケッチを手助けしたそうですが、その中で法林先生は、「山を描くのはでない、このヒマラヤの空気を描くのだ」と教えました。絵を観ると、呼吸しているものと呼吸していないものがあると法林先生は言われていたそうです。ヒマラヤの空気を通して、生きた先生自身の魂が絵に込められ、絵が呼吸し生きているから、法林先生の絵は、観る人の心に迫ってくる感動を与えるのだと理解しました。
 私は、先生がこの世を去られてから、先生の絵画を初めて観ました。先生は亡くなられていましたが、先生の絵は生きていました。生きた山々の絵画に出会った感動は、一生私の心に残ります。広がりがあり、温かく、力強い、観る人を絵に引き込み、深い感動を残す絵画を描かれた先生の偉業に、心から感服をいたします。福王寺法林先生は、これからも絵画の中に生き続け、観る人々に力強いメッセージと心に刻まれる感動を与えてゆくことでしょう。



        

〇掲載日    平成25年5月


○監修     村野 隆男氏(米沢市文化課 課長)


○資料提供   福王寺一彦氏

        神奈川県立近代美術館

        東京国立近代美術館

        彫刻の森美術館

        福島県立美術館

        米沢市上杉博物館

        山形県


○参考文献  「三彩」増刊No.365 福王寺法林Ⓒ1977年12月

        福王寺法林展 図録Ⓒ1991年

            「三彩」525号Ⓒ1991年6月

        青の継承-福王寺法林・一彦おやこ展-米沢市上杉博物館Ⓒ2001年
  
            福王寺法林・一彦展 発行)朝日新聞社Ⓒ2002年

        文化勲章受章記念 福王寺法林展 発行Ⓒ2005年


○関連ページ  福王寺一彦/福王寺法林/福王寺みどりこ(雅号 荒木みどりこ) 公式ホームページ


○執筆編集   東野真由美(置賜文化フォーラム編集員)  





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