小国町の古田歌舞伎と沖小歌舞伎


1 地域の宝 古田歌舞伎

 古くは「古田芝居」として知られた古田地区は小国町の北方、金目川に沿う戸数40戸ほどの集落です。江戸時代の末期である嘉永、安政のころ(1848〜1860)中央における歌舞伎芸の発達がこの山間地まで及び、古田の若者数人で歌舞伎を行ったのが発祥といわれています。
 その後、明治20年(1887)ごろ、江戸歌舞伎一座が小国町を巡業中、桜峠とよばれる峠道で座長が急死し、一座は解散になったのです。その一座の座付浄瑠璃の尾上竹三郎(山形市漆山出身)が、古田に土着し、歌舞伎の指導にあたった為、若者たちの芸は一段と磨きがかかり、発展していき、このころから各地の依頼を受け、出張公演をするようになり、古田歌舞伎の名が広まっていったのです。
 さらに大正から昭和初期にかけて、公式に許可を得て「古川一座」を組織し、座員は十五、六名。農閑期を利用して、昭和10年(1935)頃まで、村内を始め村外まで求めに応じ、旅興行するほどになりました。
 昭和12年(1937)の日中戦争以後、戦時中の公演ほとんどが中止されましたが、この時期は全国的にも歌舞伎興行の衰退期でありました。そして、終戦後の昭和33年(1958)の公演を最後に中絶してしまったのです。
 時を経て、昭和61年(1986)、復興の気運が高まり、名を「古田歌舞伎」と改め、地域の協力と沖庭地区福祉推進公民館連絡協議会(当時)のバックアップを得て、再スタートを切りました。そして、様々な苦難を乗り越え、古田歌舞伎保存会の結成や町指定文化財の指定(平成4年)を経て、現在に至っています。
 本年も10月29日に沖小歌舞伎と合同で行われました。沖小歌舞伎の演目はおなじみの「白浪五人男」と「絵本大功記」、古田歌舞伎は「新版歌祭文 野崎村の場」が上演されます。 沖庭小学校の児童、地域住民も年一度の公演を、毎年楽しみにしています。

2 これが古田歌舞伎

 今年公演された、演目 「新版歌祭文 野崎村(しんぱんうたざいもん のざきむら)」の解説と動画を紹介いたします。


 いかがでしたでしょうか。他にも主な演目として「一谷嫩軍記( いちのたにふたばぐんき)(二幕)」「勢州阿漕浦(せいしゅうあこぎがうら)」「傾成阿浪鳴門(けいせいあわのなると)」「弁天娘女男の白浪(べんてんむすめ めおのしらなみ)濱松屋店先の場」「奥州安達ヶ原 一ツ家の段」「神崎與五郎東下り」などがあります。

3 沖庭小学校の沖小歌舞伎

【白浪五人男】

 正式名は「青砥稿花紅彩画 稲瀬川勢揃いの場(あおとぞうしはなのにしきえ いなせがわせいぞろいのば)」といいます。
 「知らざあ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵、百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字、百が二百と賽銭の,くすね銭せえ段々に、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの、似ぬ声色でこゆすりたかり名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!」
 白浪五人男の一人「弁天小僧菊之助」が歌舞伎の「青砥稿花紅彩画、浜松屋の場」で諸肌脱いで言うセリフです “白浪五人男”とは、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の作で5人の大泥棒が主人公で文久3年3月(1862)に初めて市村座で上演されています。
 このモデルとなったのは、延享4年(1747)に獄門になった日本左衛門の一味です。歌舞伎では大金持ちから盗みはしても、弱いものいじめはしないという「義賊」と呼び、特に中心人物であった五人を白浪五人男(弁天小僧菊之助、南郷力丸、日本駄右衛門、忠信利平、赤星十三郎)と称しています。花道から、1人1人違った模様が入ったおそろいの紫の衣装と傘といういでたちで登場します。錦絵のような見た目の美しさも一つの見所です舞台に移った5人は、七五調のリズミカルな調子で一人一人名乗りを上げ、見得を切ります。ここがこの演目の最高の見せ場です。

 【絵本太功記 九段目】〜山崎合戦の場〜


 「絵本太功記」は全13段からなり、主役の武智光秀が主君の小田春長を本能寺にて滅ぼし、その仇を討たんとする眞柴久吉と戦って敗れて逃れる途中、小栗栖村の土民の竹槍に突かれ最期を遂げるまでの物語を13日間にまとめています。作者は、当時の徳川幕府を前にはばかり、登場人物の実名を避けてもじったり、題名もわざと紛らわしくしています。
 中央では「尼ケ崎の場」がしばしば上演され古田歌舞伎でも何度か演じられています。この「九段目 山崎合戦の場」は、羽柴秀吉と明智光秀が山崎において戦った場面を面白く芝居に脚色したものです。(眞柴)久吉の毒殺に失敗し、自らの刀で討とうととする四王天と、これに対する(加藤)正清と(眞柴)久吉。そして、そんな緊張感の中にもひょうきんな剣尻和尚と村人たちがとてもいい味を出しています。

4 古田歌舞伎保存会の活動

 ここでは、公演後の古田歌舞伎保存会会長の尾上昇十郎〈長介屋〉(おのえしょうじゅうろう〈ちょうすけや〉)こと斉藤昇平さんにお話を伺います。
――まずは、公演お疲れ様でした。
(斉藤さん) ありがとうございます。

――早速ですが、震災の影響で3月13日の伝国の杜公演が中止になったわけですが、どのような思いで、受け止めましたか。
(斉藤さん) これに焦点を合わせていただけに残念です。沖庭小以外の場所での講演する機会がこれまでなかったので、ましてや伝国の杜という大きな舞台だっただけにショックも大きかったです。仕方のないところでもありますが、是非再公演を実現させたいです。

――古田歌舞伎の魅力、楽しさはどんな所にあるのでしょうか。
(斉藤さん) 古田歌舞伎は、37演目の中から、2月にその年の演目を決め、7月から稽古が始まり現在は地区の若い人たちが上演します。昔の台本を今の読みに直したり、衣装を作り直したりと準備を始めます。舞台に立って、多くの皆様に見てもらい、拍手をもらえることが何よりの喜びです。長く続いているものを絶やさないことで、世代間の交流が生まれ、稽古に数ヶ月要しますので、古田歌舞伎を通すことで地域がひとつになり、活性化に役立っています。

――演技を指導するうえで(または演技をするうえで)大変なことなどありますか。
(斉藤さん) 保存会の発足当時は資料が少なく、わずかな写真や、幼少のころの記憶を頼りに、演目を再現してきたので苦労しました。現在は映像を使って後進に指導を行っています。役者の高齢化など課題もありますが、なんとか絶やさないように努力しています。

――昭和33年の公演中断から、昭和61年に復活したわけですが、保存会結成までのエピソードなどあればお聞かせ下さい。
(斉藤さん) なんとか復活させたいという思いはずっと地域住民にありました。そんな気運が高まった中で、沖庭地区福祉推進公民館連絡協議会(当時)からお話があり、初代会長の塚原勇太郎さんが「古田歌舞伎を沖庭の地域おこしのメインにしよう」という強い意志のもと復活活動を開始、3年越しで会の発足にこぎ着けました。今年で発足26年目になります。

――最後に沖小歌舞伎について教えてください。
(斉藤さん) 沖小歌舞伎は、保存会発足の2年後に教育委員会の提案で体験学習として誕生しました。小学校5年生になると子ども歌舞伎も上演し、6年生になると次の5年生に教えます。残念なのは近年の生徒数の減少により、継続が難しい状況です。あと数年で、沖庭小学校が小国小学校に統合の予定です。出来ることなら、その後も沖庭小学校の存在の証として、存続させてほしいと願っています。

――斉藤会長、ありがとうございました。実際に古田歌舞伎を目にして感じたことは、普段はまったく異なる仕事をなさっている方が、演じているとは思えないほど完成度が高いという事です。古田歌舞伎・沖小歌舞伎は地域住民の熱い思いで、毎年の公演に繋がっていました。
来年も合同公演は開催される予定です。是非足を運んでみて下さい。

○掲載日   平成23年 11月

○執筆者    松山 茂  (小国町教育委員会)
          勝見 弘一 (置賜文化フォーラム)

○取材協力  斎藤 昇平さん(古田歌舞伎保存会会長)
          小国町教育委員会
          小国町立沖庭小学校

○写真提供  小国町教育委員会
          小国町立沖庭小学校

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