1.生い立ち 昔話と暗い夜の世界とが、廣介にたくさんの空想をさせ、後に文学に向かわせたのでしょう。 廣介は、その後米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)に進みましたが、一年生でも、二年生でも、学内作文コンクールで優勝したので、コンクールは取り止めとなったそうです。廣介は、短歌もこの頃から作り始め、校友と短歌グループを作っていました。 ところが、不幸なことに廣介は、中学時代に母と別れ、生家が破産するという、苦しい経験をしたのです。 2.「ひろすけ童話」の世界 廣介は、やがて早稲田大学に進学しましたが、もう家が破産していましたから、苦学をしなければなりませんでした。「萬朝報(よろずちょうほう)」という新聞の懸賞短編小説に応募しては、賞金を獲得(全7回)、学資と生活費に充てました。在学中の1917年(大正6年)「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話一等に入選したことから、廣介は童話作家への一歩を踏み出すことになったのです。 当時はまだ「童話」という名称は無く、子供向けの読物は、みなお伽話と呼ばれていました。これまでのお伽話がみな、悪役を滅ぼす勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の形式だったのとは違って、廣介の入選作「黄金の稲束(こがねのいなたば)」は悪を書かず、老いた馬を労(いた)わるお百姓が、その思いやりの結果として、三頭の若駒と黄金の稲束に恵まれるという善意の話である点に新しさがありました。 2011年12月公開のCGアニメーション映画『friends〜もののけ島のナキ〜』も、ひろすけ童話「泣いた赤おに」を原案にして制作されたものです。 3.浜田広介記念館 高畠町の廣介の育った一本柳地区に「ひろすけ会」が発起して、平成元年、廣介の誕生日に記念館が開館しました。作家の人となりを知らせる“一筋の道(ひとすじのみち)”のコーナーには、日本のアンデルセンと言われた廣介の功績を顕彰しつつ、初期の代表作を掲載した「良友」、直筆原稿、交遊書簡、写真などを展示しています。 中央の丸い“童話ルーム”では、日に7回「泣いた赤おに」・「りゅうの目の涙」が30分おきに上映されます。また、「ある島の狐」のマジックスクリーンや、赤い木の実の形のレシーバーを耳に当てると日本語と英語で童話が聞ける“お話の木”、スイッチでページが変わる“パタパタ絵本”、廣介作詞の童謡が聞ける“メロディーの小窓”などで楽しめます。 記念館の敷地内には、平成12年、廣介の生家が復元され、東京の書斎の机なども移されました。続いて、平成14年4月には“ひろすけホール”も完成し、平成23年11月末迄に69万人が入館しました。 4.廣介のふるさとへの思いと現在の事業 家を失った廣介は、生涯、故郷を忘れませんでした。母校の屋代小学校に著書を送り続け、それは「ひろすけ文庫」となりました。初めは町の子供の作文を表彰していた事業は、今では全国の子供の「ひろすけ童話」の感想文と感想画のコンクールとなりました。また、優れた童話を奨励するために、大人の作家の童話も毎年選ばれています。平成23年で第22回となりました。 ※浜田廣介先生・来歴は・・・こちら ◎執筆者:浜田留美(浜田廣介氏次女・浜田広介記念館名誉館長) ◎写真提供:浜田広介記念館 ◎関連ホームページ:浜田広介記念館 friends〜もののけ島のナキ〜 印刷用PDFはこちら |
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