浜田廣介と広介記念館


1.生い立ち

 浜田廣介(はまだひろすけ・本名:濱田廣助)は、1893年(明治26年)5月25日に、農業の父為助(ためすけ)と母やすの長男として東置賜郡屋代村(現山形県東置賜郡高畠町)に生まれました。家に同居の祖父母が居なかったため、廣介は小さいうちから、農作業に行く母に連れられて田畑や村の自然に触れて育ちました。「カッコー」と鳴く声がすると、母は、子をさらわれて鳥になった哀れな母親の昔話をしてくれました。明治時代の東北地方は、冬の夜は雪に閉ざされて真っ暗でした。囲炉裏(いろり)の火と、小さく灯(とも)るランプの光のそばで廣介は炬燵(こたつ)にあたりながら、母やその母のおばあさんから、色々な昔話を聞きました。おかしい話もありましたが、廣介の心にはかわいそうな話が残りました。聞きながら泣くと、母が話を止めるので、廣介は暗い部屋の中で下を向き、涙をぬぐうのでした。
 昔話と暗い夜の世界とが、廣介にたくさんの空想をさせ、後に文学に向かわせたのでしょう。
 父は、5月生まれの廣介を一年早く入学させたかったのですが、役場は許しませんでした。そこで、小学一年生の教科書を買って来て、廣介に教え始めました。廣介が覚えれば、どんどん進むので、入学の時には、二年生の教科も終わっていたそうです。また、父は、米沢へ出掛けると巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽話(とぎばなし)の本や、少年雑誌を買って来てくれました。廣介は、少年雑誌に作文や詩を投稿し、13歳の時、作文が優等に入選、銀メダルと懐中時計をもらいました。
 廣介は、その後米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)に進みましたが、一年生でも、二年生でも、学内作文コンクールで優勝したので、コンクールは取り止めとなったそうです。廣介は、短歌もこの頃から作り始め、校友と短歌グループを作っていました。
 ところが、不幸なことに廣介は、中学時代に母と別れ、生家が破産するという、苦しい経験をしたのです。





2.「ひろすけ童話」の世界

 廣介は、やがて早稲田大学に進学しましたが、もう家が破産していましたから、苦学をしなければなりませんでした。「萬朝報(よろずちょうほう)」という新聞の懸賞短編小説に応募しては、賞金を獲得(全7回)、学資と生活費に充てました。在学中の1917年(大正6年)「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話一等に入選したことから、廣介は童話作家への一歩を踏み出すことになったのです。
 当時はまだ「童話」という名称は無く、子供向けの読物は、みなお伽話と呼ばれていました。これまでのお伽話がみな、悪役を滅ぼす勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の形式だったのとは違って、廣介の入選作「黄金の稲束(こがねのいなたば)」は悪を書かず、老いた馬を労(いた)わるお百姓が、その思いやりの結果として、三頭の若駒と黄金の稲束に恵まれるという善意の話である点に新しさがありました。
 この入選をきっかけとして、廣介は、コドモ社の雑誌「良友」(大正5年創刊)に誘われて童話を書くようになりました。幼年時代、母に聞いた昔話をタネに、廣介は「呼子鳥(よぶこどり)」を書き(大正7年7・8月号)、翌8年1月号に「椋鳥の夢(むくどりのゆめ)」を発表しました。「呼子鳥」が哀しい母の側からの作であるのに対し、こちらは、いなくなった母を恋う
椋鳥の子の話です。事実、廣介は、弟妹を連れて実家に帰った母に会えませんでした。廣介は、童話の中にも自分の寂しい境遇を織り込んで書いたのです。ひろすけ童話は、作者の心情のこもった文学で、ただの子供向けの話ではありません。「泣いた赤おに」の“おに”も、「りゅうの目の涙」の“りゅう”も、元々、人々から恐れられ嫌われる者達です。家を失って苦学をした廣介は、貧しく辛い思いをしたことでしょう。その経験から廣介は社会的に弱い立場の者に温かい目を向けるようになり、思いやりを童話に込めたのです。「ひろすけ童話」は、子供だけでなく、大人にも読まれ、愛されて、演劇や映画にもなっています。
 2011年12月公開のCGアニメーション映画『friends〜もののけ島のナキ〜』も、ひろすけ童話「泣いた赤おに」を原案にして制作されたものです。


3.浜田広介記念館

 高畠町の廣介の育った一本柳地区に「ひろすけ会」が発起して、平成元年、廣介の誕生日に記念館が開館しました。作家の人となりを知らせる“一筋の道(ひとすじのみち)”のコーナーには、日本のアンデルセンと言われた廣介の功績を顕彰しつつ、初期の代表作を掲載した「良友」、直筆原稿、交遊書簡、写真などを展示しています。
 中央の丸い“童話ルーム”では、日に7回「泣いた赤おに」・「りゅうの目の涙」が30分おきに上映されます。また、「ある島の狐」のマジックスクリーンや、赤い木の実の形のレシーバーを耳に当てると日本語と英語で童話が聞ける“お話の木”、スイッチでページが変わる“パタパタ絵本”、廣介作詞の童謡が聞ける“メロディーの小窓”などで楽しめます。
 記念館の敷地内には、平成12年、廣介の生家が復元され、東京の書斎の机なども移されました。続いて、平成14年4月には“ひろすけホール”も完成し、平成23年11月末迄に69万人が入館しました。


4.廣介のふるさとへの思いと現在の事業

 家を失った廣介は、生涯、故郷を忘れませんでした。母校の屋代小学校に著書を送り続け、それは「ひろすけ文庫」となりました。初めは町の子供の作文を表彰していた事業は、今では全国の子供の「ひろすけ童話」の感想文と感想画のコンクールとなりました。また、優れた童話を奨励するために、大人の作家の童話も毎年選ばれています。平成23年で第22回となりました。



※浜田廣介先生・来歴は・・・こちら

          

◎執筆者:浜田留美(浜田廣介氏次女・浜田広介記念館名誉館長)

◎写真提供:浜田広介記念館

◎関連ホームページ:浜田広介記念館
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