置賜が生んだ戦国武将 片倉小十郎景綱




 米沢藩主・上杉景勝を支えた直江兼続と同様に、米沢生まれの伊達政宗にも彼を支える人物がおりました。その人物が、片倉小十郎景綱です。
 片倉小十郎景綱(かげつな・通称小十郎)は東北の雄「独眼竜政宗」の宰相を務めた智将であり、天下人・秀吉と家康に一目置かれる人物でした。政宗の教育係から宰相を経て、やがては白石城主を務めるにまで至った戦国武人です。小十郎は、川西町で少年時代を過ごし、幼少の政宗の教育係を務めるなど、南東北を中心に活躍した人物です。

◆片倉小十郎の生涯

 片倉小十郎は弘治3年(1557年)、八幡神社の神主・片倉景重(かげしげ)の次男として片倉館に誕生します。
 しかし、生まれて間もなく、跡継ぎのいなかった親戚の藤田家に番代として出されてしまいます。数年後、藤田家に跡継ぎが誕生した時、再び片倉家に戻るよう言われました。このような幼少期をみると、とても伊達家の宰相を務める人物の扱いとは思えません。

 15歳の時に小十郎は、伊達家16代目当主・輝宗(てるむね・政宗の父)の徒小姓になります。そのきっかけとして様々な要因が考えられます。小十郎の姉・喜多(きた)が政宗の乳母を務めていたので、喜多が輝宗に推挙したのではないかという説。輝宗の宰相である遠藤基信(もとのぶ)が川西町と米沢を以前から頻繁に行き来していたことから、そのとき小十郎と出会い、人物を見出したのではないかという説があります。

 徒小姓となった小十郎は伊達輝宗の宰相・遠藤基信から直接剣術指導をしてもらいます。
 稽古のおかげもあってか小十郎は19歳の時、政宗(当時9歳、梵天丸・ぼんてんまると称す)の教育係に抜擢されます。伊達家系に直接つながりがなく、しかも徒小姓の身分から、次期当主である政宗の教育係に抜擢されるのは異例のことでしょう。小十郎の姉・喜多が政宗の乳母を務め、なおかつ弟・小十郎が教育係を務めることは、片倉家としての信頼の高さ、そして才能の高さもうかがえます。伊達政宗という人間の人格はこの片倉姉弟によって育てられたといってもよいでしょう。政宗の教育係に就任した小十郎は、病を患った政宗の右目を治療して悲観的な性格を直し、政宗を前向きで活発な性格にしたということで有名です。

 天正13年(1585年)、小十郎は人取橋の戦いに従軍し、そこで原田左馬助宗時(さまのすけむねとき・川西町原田城主)とともに奮撃します。戦の最中、政宗が窮地においやられると、小十郎は「今から助けに行っても合わない」と判断して、自らを政宗と名乗り敵を引き付けることで政宗を救ったというエピソードがあります。
 主君のためなら自らの命を投げ出す覚悟を持っていた人物が、小十郎という男です。

 その才能は豊臣秀吉、徳川家康にも認められました。天下人になった秀吉は全国に「一国一城令」を出しました。しかし、伊達藩においては仙台城のほかに、特例として1万6千石の白石城が小十郎に与えられ、白石城はその後片倉家代々の居城となります。この白石は宮城と福島の国境に接しており、政宗にとっては仙台藩の南の要害として非常に重要な土地であり、そのことからも政宗の小十郎に対する期待と信頼が伺えます。
 家康からは「江戸に屋敷を与え家臣に迎えよう」と言われましたが、これを固く断わりました。小十郎は「伊達家に奉公することは、すなわち天下に奉公すること」と政宗への絶対なる忠誠心をつらぬきました。


◆川西町と小十郎

 小十郎と政宗の2人は剣術稽古の合間に釣りをしたり、双六(すごろく)をしたり、踊りを踊ったり、身分を超えて一緒に過ごしていた記述が多くあります。「片倉小十郎宅に御出、鮒を釣せらる。…兵法御稽古あり。其後双六打せられ、…」(『貞山公治家記録』より)

◆小松豊年獅子踊り

 天正15年(1587年)7月24日、小十郎宅に政宗を招き、政宗が太鼓を打ち、原田左馬助宗時(原田城主)、小十郎(当時32才)らが獅子踊りを披露しました(『貞山公治家記録』より)。この獅子踊りは川西町塩ノ沢に古くから伝わる「小松豊年獅子踊り」ではないかといわれています。獅子踊りは息が合っていないと簡単に踊れるものではないので、川西に居城した小十郎と原田左馬助でなければ踊られるものではありませんでした。なおかつ、小十郎は「潮風」という笛を持つ笛の名手であり、奏でた音色は小松豊年獅子踊りの音色だったのかもしれません。




◆小十郎の出生地はどこか?川西町誕生説

 小十郎の出生地については「米沢八幡宮の近く片倉館の生まれ」と書かれた文献があるだけです。しかし、「米沢八幡宮」とはどこの神社を指すのかいまだ特定できていません。いままでは「成島八幡神社」か「阿久津八幡神社」ではないかとされてきました。しかし神社の記録には「片倉」の名はなく、近くに「片倉館」も見つけられないことから、正確な特定はできませんでした。
 しかし近年、川西町の地元青年グループが文献・記録を再整理し、そこで発見した絵図によれば、川西町塩ノ沢地区には「片倉館」が記されており、「八幡神社」が近くにみられました。なおかつ、その土地の知行は代々片倉氏だったというのです。

 塩ノ沢地区とは、山間部である川西町玉庭と街道の要所である川西町小松とが交わる重要な場所でした。戦国時代の武将にとっては領地を支配するために重要な立地といえます。
 地元青年グループによるこうした探求は歴史学における最大のロマンです。歴史に対する関心の高まりに合わせ、地域の歴史を掘り起こしていくことが、地域の再生につながっていくのだと思います。地元に根ざしたまちづくり、それによる観光振興など可能性は広がっていきます。



 ○掲載日 平成23年7月

 ○執筆者 小林善久(川西町産業振興課)

 ○関連ページ  戦国観光 やまがた情報局


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