自然との共生 〜マタギの心得〜



第1章 現代に息づくマタギ


飯豊連峰の麓にマタギ衆が住
む小国町小玉川地区があります
=小国町産業振興課提供

 日本有数の名峰として知られている飯豊連峰と朝日連峰を有する小国町。森林の面積は町全体の約9割を占めており、町を代表するブナ林と冬季に降り積もる雪のイメージから「白い森」といわれています。
 そんな小国町には自然と共生するマタギ文化が今も伝えられ、冬山には狩りを行う男たちの姿があります。

 マタギといえば秋田県の阿仁マタギが有名かもしれませんが、小国町でも小玉川(こたまがわ)地区や五味沢(ごみざわ)地区、金目(かなめ)地区でマタギ文化の伝統が守られています。
 そもそも、この阿仁マタギが東北各地をまたに掛け、狩猟技術を伝えたことから「マタギ」と呼ばれるようになったのではないか、という説もあるそうです。
 小国町南部の温身平(ぬくみだいら)から飯豊山に向かう大堯覆世い阿蕁鉾根の麓には「秋田のぞみの平」、大丸森山の麓には「秋田の小屋場」という地名が伝わっており、阿仁マタギが訪れた名残かもしれません。

 飯豊連峰の麓に位置する小玉川地区には、落ち武者が隠れるように住みついて狩猟を行い、マタギ集落を作ったとの言い伝えがあります。1500年代後半の蒲生氏時代の検地帳をもとに作られた「邑鑑(むらかがみ)」という史料には小玉川集落に関する記述が残っているそうで、少なくとも400年ほど前には小玉川にマタギ文化が存在していたと思われます。

 マタギというとクマ狩りを連想しますが、クマ狩りだけでなく、山菜採り、魚などを捕まえる川狩り、キノコ狩りなど、山々から自然の恵みをいただく者たちを広くマタギと呼んでいるそうです。山岳地帯での生活には、米など穀物の収獲だけではなく山菜の収獲や動物の狩猟が必要だったのでしょう。

 クマ狩りを始めれば、とことんクマを探し歩くのが小玉川流です。過去には、辺りが暗くなるまでクマを追いかけ、いよいよみつからないとなれば里には戻らず、山で一夜を明かすこともあったといいます。1日に山中を探し歩く距離は長いときで10数kmにのぼることも珍しくなかったそうです。狩猟で生計を立てていた時代、自分だけでなく家族や仲間の生活がかかった命がけの狩猟だったことがうかがえます。

 そんなマタギ衆の間には、狩りは仲間全員で行い、獲物は平等に分け与えるというルールがあります。衣食住が安定している現在と違い、季節や天候に左右される山間部の生活で、厳しい狩りを共にする仲間を考えたルールだったのではないでしょうか。
 また、マタギ衆はむやみやたらに動物の命を奪っているわけではありません。捕獲頭数の制限を守るのはもちろんですが、親子連れのクマを撃たないなど厳格な教えを守り継いでおり、山に生きる動物とそこに暮らす人たち双方を考えています。

 現在、就労環境や生活様式の変化に伴い、マタギを行う人は減ってきています。また、狩猟の方法も変化し、以前はマキ狩りといって集団で狩りを行っていましたが、狩猟の効率化が進んで一度の狩猟に参加する人は少人数になってきているそうです。

 今のマタギには、生計を立てるための意味合いは薄れていますが、伝統文化の継承と共有を目的にマタギを志す20〜30歳代の若い世代が育ってきているといいます。狩猟だけでなく山岳遭難救助隊の一員として遭難者の救助活動に協力したり、森林セラピー基地で案内人を務めたり、山を舞台に広く活躍しています。日常生活から自然の厳しさが遠のいた現代だからこそ、山に生きるマタギの精神を忘れてはいけないのではないでしょうか。

 第2章 信仰


山の神をまつる十二山の神神社

 厳しい自然環境で狩りを行うマタギには、山の神に対する信仰が色濃く伝えられています。ひとたび自然が猛威を振るえば、人間などひとたまりもありません。ちょっとした気の緩みが自分の命だけでなく、猟を行う仲間にまで迷惑をかけてしまいます。だからこそ、自然に対して畏敬と感謝の念を込めて、山の神信仰が深く根付いているのかもしれません。

 「山の神」を祀る神社は小国町内だけでも80以上を数えるといい、小玉川地区にも鎮座しています。旧小玉川小中学校から泡の湯温泉方面に町道を南下してくと、十二山の神(じゅうにやまのかみ)神社が見えてきます。町の天然記念物に指定されている高さ30m以上の杉が社を守るように根を下ろしています。

 マタギの世界では、「12」という数字をあちらこちらで耳にします。12人で山に入るのは縁起が悪いといい、どうしても12人になってしまう場合は、「山の神様が加わると13人になるから大丈夫」などと話す人もいるそうです。

 また、山での安全を願う山日待(やまひまち)という神事が2月12日に執り行われます。これら「12」という数は十二山の神の数にちなんでいるのではないかという考え方もあります。

マタギ衆の間で神が宿ると信じられてい
る三つ又の木=小国町産業振興課提供

 ミズナラやブナなどの広葉樹林が広がる緑豊かな小国町。マタギの間では主幹が途中から二つに分かれて三つ又になっている木には神が宿るといわれ、むやみに伐採をしないそうです。自然界が作り出した希少な三つ又の木がもし枯れてしまっても、また新たに神が宿った三つ又の木に巡り、山の神信仰が受け継がれていくと考えるのだそうです。

 飯豊山荘の前には三つ又のミズナラがあり、そのそばには“山の神”と刻まれた石碑も建立され、マタギ衆の信仰を集めています。狩猟前にはここで豊猟と安全を願って狩りに出かけていきます。

第3章 狩り

 マタギの伝統的な狩猟方法として知られるのは“マキ狩り”というものです。マキ狩りには、頭領をはじめ20人ほどが参加します。昔、無線や双眼鏡、高性能な銃がなかった時代は、仲間との深い連携が必要不可欠だったのではないでしょうか。

 マキ狩りでは、全体を指揮する「ムカダテ」、クマを追い立てる「セコ」、クマを撃つ「ブッパ」、鉄砲を補助する「フンギリ」などの役割があります。


雪原の飯豊連峰にクマ狩りに出るマタギたち
=小国町教育委員会提供
  
獲物を見つけ狙いを定めるブッパ
=小国町教育委員会提供

 クマを発見すると、ムカダテはセコに指示を送ってクマを追い立てていくのですが、無線がなかった時代ですから、ムカダテは離れたセコに対して言葉だけでなく、身振り手振りといった動作で指示を送ります。ときには、1〜2km離れた場所でやりとりすることもあったというから驚きです。

 クマを見つけると、セコは槍を手に大声を上げて、ブッパが待ち構える場所までクマを徐々に追い立てていきます。クマが射程距離に入ると、いよいよ発砲するのですが、体のどの部分を撃ってもいいというわけではないのだそうです。クマの側面脇を狙って撃つのですが、わざわざ狭い部分を狙うのにはわけがあります。クマの正面から胸元や腹部を打てば最も貴重な部分である胆のうを傷めてしまう恐れがあり、さらにはクマの肉の味まで駄目にしてしまうこともあるからです。そのため、ブッパには狭い的を的確に狙い打つ技術と経験が必要になってくるのだそうです。

 当時の狩りは、鉄砲だけでも、クマを追い立てる役だけでも、指示者だけでも成り立ちませんでした。協力して狩りを行っていたからこそ、獲物を平等に分け与えるという教えが残っていたのではないでしょうか。

 狩りを終えると、マタギ衆は無事猟を終え収獲できたことに感謝しながら、一同で夕食をとります。そこでは失敗談や武勇伝に花を咲かせ、仲間との絆を深めていくのだそうです。

 小玉川地区には、2005(平成17)年5月、マタギの歴史を伝える「マタギの郷交流館」が開館しました。狩猟に使われる鉄砲やワナ、魚を捕る道具など、マタギにちなんだ道具や歴史が幅広く展示されており、狩りの模様を詳しく知るのに役立つ資料館となっています。(展示室営業時間 9:30〜16:30、毎週火曜日休館、冬期間休業)
 また、毎年5月には「小玉川熊まつり」が開かれています。山の神に感謝する神事やマタギによるクマ狩りの模擬実演が行われます。興味のある方は一度見に訪れてはいかがでしょうか。



第4章 思い出

マタギだけでなく、小国町小玉川
での生活を振り返る伊藤良一さん

 マタギの郷交流館館長で、森林セラピーアテンダントミーティング会長の伊藤良一さん(70)。
 「道路の整備がまだまだだった時代、小玉川地区は雪が降ると外部と遮断され、陸の孤島と化していた。マタギ専門の家系ではなかったが、昭和30年代の小玉川に住んでいる男は親に連れられ山に入っていったもんだ」と振り返り、物心が付くころには自然にマタギの道へと踏み出したそうです。

 中学校を卒業すると同時に狩りに参加するようになったそうで、日中は山に出かけ、夜間は青年学級に通って勉学に励んだ青年時代。

 初めてクマ狩りに参加したのは16歳のときでした。飯豊山荘付近にクマが出たとの連絡を受け、先輩たちとともにセコ役として現地に向かったのがクマ狩りへの第一歩でした。

 新米は、山の名前、沢の名前など徹底的に狩場の地理を覚えることから始まります。マタギ同士の会話では「狩りに失敗した“あの沢”でよ〜」と仲間にしか伝わらないようなやりとりもあり、単に地図を見て覚えることができるものではないといいます。

 また、季節によって表情を変える山の景色は、実際に歩き回らないとその特徴をつかむことができません。山での狩りは危険と隣り合わせで、一人で山から帰ってくることができるくらいまで山を知り尽くすには経験と時間が必要となってきます。

 狩りに参加したあるとき、稜線でムカダテから指示を待っていたところ、毎日の狩りの疲れからついうとうとしてしまったことがあったそうです。はっと気がつくと、山の状況がわからず、大慌てでクマの状況を確認したことを今でも覚えていると振り返ります。

 またあるときは、いくらクマを追い立てても、クマが藪に隠れて出てこないときがありました。大尾根の千本峰(せんぼんみね)という傾斜が急な場所で尾根まで登ってみると、すぐそばにクマの姿が。その距離4〜5mほどで、慌てて銃を取り出し引き金を引いたそうです。

 マタギだけでなく外の世界にも触れようと、東京に出たこともあるという伊藤さん。小国町の自然の素晴らしさを再認識して地元に帰ってきてからは、キノコの栽培や岩魚の養殖を手がけながら狩りに参加してきました。1989(平成元)年、町議会議員に初当選してから山に行く回数は減り、1991(平成3)年以降クマ狩りには参加していないそうです。

 しかし、狩りを離れた今でも、小玉川地区の雄大な自然を思う気持ちは今も変わりません。伊藤さんは「マタギを取り巻く環境は変わってきたが、若い人たちにも歴史ある小玉川のマタギ文化を引き継いでいってほしい」と小玉川地区を支えてきた伝統文化の継承を呼びかけています。



        



 ○掲載日 平成23年4月

 ○執筆者 大竹茂美(置賜文化フォーラム事務局)

 ○取材協力 伊藤良一さん(マタギの郷交流館館長)
          小国町産業振興課

 ○写真提供 小国町教育委員会
          小国町産業振興課 


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