置賜スポーツ偉人伝 皆川睦雄 華麗なるアンダースロー

皆川睦雄

 1 生い立ち

 皆川睦雄は、昭和10年(1935)7月3日、山上村(米沢市)大字関根に7人兄弟の末っ子として生まれました。
 幼い時に父を亡くし、経済的には恵まれない環境でしたが、亡き父の後を引き継いだ兄の運送業の仕事を手伝ったりして、元気に成長しました。重い荷物を持ち運んで、その時に足腰が鍛えられたのでしょう。そして、第二次大戦後急激に広まった野球と出会い、その天分を発揮したのです。小学生の時に、早くも大人顔負けのボールを投げていました。

 山上中学(現米沢市立第五中学校)に入ると、野球部の投手として活躍、米沢市内の中学にはなかなか勝てなかったものの、関根にすごいピッチャーがいると、関係者にはその名を知られるようになっていました。


2 高校時代

一年生からエース

 周囲に、彼の才能を伸ばしてやりたいと応援する人もいて、当時の米沢高等学校(旧制米沢中学からの一高と、旧制女学校からの四高が合併した普通科の高校)に進みました。
 戦後まだ物資不足が続いていた時代で、野球用具も十分でなかったのですが、この年米沢市内からも有望な新入生が多く入って、野球部はにわかに活気づきました。
 春、仙台で大会があり、米沢高校も県から推薦されて出場したのですが、一年生の皆川も、もう一人の一年生青木(後に松浦となる)と共にレギュラーとして試合に出たのです。初めは外野手だったのですが、途中から投手をやりました。その後は、それまでの三年生の投手が外野に回り、皆川は早くもエースの座を勝ち取ったのです。

フェアプレーの精神


 夏の大会が酒田で行われましたが、米沢高校は順調に勝ち上がり、決勝に駒を進めました。相手は、これも一年生の左腕高橋を擁する鶴岡工高です。試合は接戦のまま、米高1点リードで終盤に入りました。鶴工が反撃に出て、走者三塁です。この時、皆川が痛恨のボークを冒してしまいました。監督の遠藤浩氏(後に学習院大学法学部長をなさった民法の権威で、我妻栄博士の愛弟子)は、審判に確かめようとしてベンチを出たのですが、皆川がマウンドから降りて来て、「監督、今のはボークです」と言ったのです。
 この時のことを、遠藤監督は後に語っています。「うれしかったですね、涙の出るほどうれしかったです。こういう道を歩かせたかったのです」と。開会式の選手宣誓で、よく「フェアプレー精神で正々堂々」などと言いますが、言うは易くとも行動でそれを示すのはなかなか難しいことです。しかも、そのために試合に負けてしまうような大事な場面で、ごく自然に示すのは大変なことでしょう。事実、これがきっかけで米高は逆転負けをしてしまいました。

右手小指骨折のまま完投


 決勝で敗れて準優勝でしたが、東北大会に出ることになりました。この頃は、山形・宮城・福島の三県で東北大会があり、甲子園にはここで勝った一校だけが出場できたのです。
 (開催地元から4校、他の二県から2校ずつの計8校で争われた)
 その年は福島で大会があり、その東北大会に向けて米沢市営球場を借りて練習していたのですが、大きな事故が起こりました。打撃練習中の打球が、皆川の右手を直撃、小指を骨折してしまったのです。あわてて駆け寄った監督も部長も、これは単なる打撲だと言って、そのまま東北大会に出場することになりました。皆川を欠いては試合にならないという判断だったのです。今では考えられないことですが、当時はそれが当たり前だったのでしょう。
 大会、一回戦は地元の内郷高でしたが、2-0の完封勝利でした。後で皆川は、球が遅すぎて打てなかったのだろうと言っていますが、骨折のまま投げぬいたのです。夜はものすごい痛みでしたが、三年生か交替で氷で冷やしてくれました。
 次の準決勝は、これも地元の安積高でした。途中までは何とか3点だけに押さえていたのですが、9回表、ついに限界が来たのでしょう。めった打ちに会って10点取られてしまい、0-13の大敗でした。
 試合後、病院へ直行したのですが、もちろん骨折の診断でした。しかし、若い力はたいしたもので、しばらく休養したものの、秋の大会にはまた投げられるようになりました。

甲子園の夢消える

 二年生になる時、米沢高は西高と東高に分かれ、校名は米沢西高(現在の米沢興譲館)となりました。
 夏の大会は米沢で開催されましたが、米西高は予想通り勝ち進み、念願の県制覇を成し遂げました。皆川投手の力投があったことはもちろんです。
 この年の東北大会は山形であり、米西高と宮城の気仙沼高が優勝候補という評判でした。この両者が一回戦で戦う組み合わせです。試合は、接戦の末1-2で気仙沼に敗れました。決勝点は捕手のパスボールでした。「試合後は、誰も口をきいてくれなかったが、皆川だけが慰めてくれた。」と捕手の嶋貫は語っています。この嶋貫は、その後も最後まで皆川の最もよき理解者で、プロに行った後、郷里に家がなくなったので、立ち寄るのはいつも嶋貫の家でした。
 なお、この年甲子園に行ったのは山形南高で、この時が初出場でした。この山形南を県大会では3-0と完封していただけに、皆は本当に悔しい思いをしたのです。
 さて、三年生になる前の春休み、米西高は東大の合宿所に入れてもらい、春季合宿をしました。今でこそ多くの高校が県外での春季合宿をしていますが、当時は大変珍しいことでした。監督の遠藤浩さんが東大出で、この頃は学習院大に勤務していたため、東大野球部の選手が交代で米沢に来て指導してくれていたのです。そんな縁で、当時の神田監督にお願いして、東大一誠寮での合宿が実現したのです。練習も東大の専用球場をお借りして、東大生と一緒に練習をしました。
 練習を見に来るファンが、今年は東大にいい投手が入って楽しみだと言っていましたが、実はこれが皆川だったのです。このうちの一日、バッテリーだけ立教大の練習場に行き、砂押監督に見てもらったのですが、投手はこのままで何も問題がない、卒業後は立教で採りたいという話だったようです。

 三年の夏の大会は山形であり、予想通り米西高の連続優勝となりました。決勝は一年時と同じ鶴工でしたが、一回にエース高橋をノックアウトして大勝、雪辱を果たしました。

 東北大会は仙台で行われ、一回戦を順調に勝ち、準決勝は福島商と対戦。この両者のうちどちらかが甲子園に行くだろうという予想でした。福島商のエース森口は、鋭く落ちるドロップ(当時はそういう言い方をした)を決め球とする右腕で、卒業後はプロ野球に行き、初年度に10勝をあげる活躍をしたのですが、その後はすぐ名前が消えました。
 試合は、皆川・森口共に譲らず0-0のまま九回裏を迎えました。米西高は敵失と四球で無死満塁という絶好のチャンス。ここで一番打者青木がみごとに左中間を破りサヨナラ勝ちとなりました。これで甲子園まちがいなし、と誰もが思ったのです。
 しかし、現実は厳しく、決勝では全くノーマークだった白石高に0-4と完敗でした。試合は、一回からエラーやスクイズで1点取られ、その後も当たりそこねのヒットが出たりと、1点ずつ取られたのです。一方米西高はこんなはずはないというあせりもあり、好機に出た痛烈な打球が走者の足に当たるなどの不運もあって、とうとう1点も取れずに敗れたのです。皆川が一試合に4点も取られたのはこの試合だけでした。宿敵福島商を破ったという安堵感と、気の緩みも確かにあったのです。
 ただ、捕手の嶋貫によれば、試合前ブルぺンでの投球はこれまで見たことのないような凄い球を投げていた。ところが、試合ではそんな球は一球も来なかったというのです。
 ともかく、こうして甲子園の夢ははかなく消え去りました。

3 プロ野球の道

南海ホークスへ

 高校卒業後、皆川は家庭の事情もあって大学進学を諦め、プロ野球の道を選びました。
 二年生の頃から、各大会にプロ野球のスカウトが来ていて、マークされていたのですが、スカウトに来ていた何人かのうち、南海ホークスの人が最も信頼できたというのが、部長の遠藤雄三先生や遠藤監督の話でした。
 こうして雪の米沢を出て、遠く離れた大阪の地にたった一人で行くことになりました。当時は、米沢から大阪までは列車を乗り継いで一昼夜以上かかったのですが、夜明け、停車した列車の窓から外を見ると、薄暗い中に雪が降っていて、駅名の標示板に「米」という字が見えた。あ、これは米沢に戻ってしまったと一瞬思ったそうです。実は米原だったのですが、どんなに心細かったことでしょう。

 南海ホークスの二軍の寮に入ったのですが、ホークスの選手はほとんどが大阪・広島・九州などの出身者です。東北の田舎から来た皆川は、まず言葉で苦労しました。練習後、集まっている皆から、おい皆川、こっちへ来て何かしゃべれと言われるのがとても嫌だった。だから、できるだけ遅くまでグランドに残っているようにしたのです。こうして、練習熱心な皆川ができたのでした。
 皆川と同じ年に、京都の山の中、峰山高から南海に入ったのが捕手の野村克也です。彼とは二軍からずつとバッテリーとしていっしょにやってきた仲です。

 この頃、一軍選手のバッティング投手を務めましたが、彼はただ打ち易い球を投げるのではなく、ピッチングの実技練習のつもりで、打者からはだいぶ嫌がられたようですが、いわゆるえげつない球を投げたそうです。

 皆川は高校時代、右上手からの本格派速球投手であり、プロに入ってからもそのままでしたが、数年して、投げ方をアンダースローに変えました。技術的な行き詰まりや、身体の回転が上手より下手の方に向いているという指摘があり(当時の投手コーチ柚木氏だという説が有力)、懸命に練習を重ねて、その後の華麗なアンダースロー投手として花開いたのです。

一球入魂

 皆川は、色紙によく「一球入魂」と書いています。実はこれには一つのエピソードがあります。昭和33年のシーズン中、ライバル西鉄ライオンズと対戦した時のことです。試合は中盤、八番打者の和田に対してたまたまノースリーのカウントになりました。絶対打って来ないと、ど真ん中にストレートを投げたのです。ところが主審はボールと宣告、これにはさすがにおとなしい皆川も捕手の野村ともども、なぜ今のがボールかと詰め寄りました。その主審は有名な二出川でしたが、少しも騒がず、「今の球には気持ちが入っていない、だからボールだ」と言ったのです。皆川は一言も言えず引き下がりました。これ以来、皆川は一球たりともおろそかにしなかったというのです。これが一球入魂の言われです。

最後の30勝投手

 南海ホークス一筋に18年間という長い投手生活は、彼の節制と努力の賜物ですが、そのほとんどが二番手投手で、常にエースが他にいて彼自身はそれほど目立たない存在でした。
 ところが、昭和43年(1968)プロ15年目にして年間31勝をあげて最多勝利投手、1.61で最優秀防御率投手となり、べストナインにも選ばれてパ・リーグのみならず球界のエースの座を占めたのです。これはまさに驚異と言ってよいでしょう。この変身ぶりは、長年続けてきた皆川の努力が実を結んだものでしょう。
 技術的には、長年苦手としてきた左打者に対するスライダーを身につけた結果でしょうか。この年のオープン戦で巨人の王選手をうち取って自信をつけたボールのようです。野村捕手は、現在流行のカットボールを最初に投げたのが皆川だと言っています。
 この昭和43年、皆川のあげた31勝以後、日米を通じて30勝投手は現れていません。
 残念ながら、翌44年のオーブン戦で、打席に立った皆川は死球を受けて、右手人差し指を複雑骨折、全治2ヶ月の重症でした。右手指骨折は高校以来二度目になります。これ以後、結局元に戻らず昭和46年に現役を引退しました。

仏の皆川「不忘恩」の心

 昭和47年以降はプロ野球解説者として、また阪神・巨人・近鉄の投手コーチとしてプロ野球とかかわって来ました。この間、巨人のコーチ時代は高卒新人の桑田投手などを育てました。その温厚な人柄は多くの人に慕われ、解説者としては決して選手をけなすことなく、どこかよい点を見つけて褒めるといったところから、仏の皆川と言われていました。
 また、奈良の薬師寺の管長だった高田好胤(たかだこういん)師に可愛がられ、師の講演にはよく一緒に出かけて講演をすることが多かったようです。長男の忠裕君の結婚式には、高田師が東京からわざわざ戻って式場に直行し、祝辞を述べられたほどです。

 皆川はまた、郷土米沢や山形県をいつも大切にし、講演をしたり、何度も県青年の船の講師をして若い人たちに慕われていました。
 そして、自分が今あるのは他の人々のお陰だと言って、感謝の心を忘れない人間でした。
皆川が晩年に色紙に書いた「不忘恩」は彼のそうした人柄をよく表す言葉です。

経歴

昭和10年7月3日    米沢市大字関根に生まれる
昭和29年3月       米沢西高卒業
昭和29年4月       南海ホークス入団
昭和46年11月        〃     退団
昭和47年〜50年    ABC朝日放送野球解説者
昭和51年〜52年    阪神タイガース投手コーチ
昭和53年〜60年    ABC朝日放送野球解説者
昭和61年〜63年    読売巨人軍投手コーチ
昭和64年〜平成2年  ABC朝日放送及びサンケイスポーツ野球解説者
平成3年〜平成4年   近鉄バファローズ投手コーチ
平成5年〜平成16年  プロ野球解説者
平成17年2月6日    満69歳で没
平成17年11月3日   米沢市民栄誉賞受賞(第1号)
平成18年3月15日   山形県民栄誉賞受賞(4人目)
平成23年7月22日   野球殿堂入り(エキスパート部門 山形県では初)

プレーヤーズデータ

通算成績

登板      759(6位)
完投      101
勝利      221(14位)
敗戦      139(34位)
防御率    2.42(12位)
セーブ     ―
完封勝利    37(18位)
無四死球試合 18(41位)
投球回数  3158(19位)
被安打    2704(21位)
奪三振    1638(26位)
※()内は日本歴代順位(50位以内のみ記載)
※防御率順位は投球回数2000回以上のみ記載
※セーブ記録は昭和49年以降制定

タイトル・表彰等

最多勝利投手     1回(昭和43年 31勝10敗 0 .756)
最優秀防御率投手  1回(昭和43年 1.61)
最優秀勝率投手    2回(昭和37年 19勝4敗 0.826)(昭和43年 18勝7敗 0.720) 
ベストナイン       1回(昭和43年)

その他の記録

1シーズン30勝以上    1回(昭和43年 31勝)
1シーズン10勝以上    8年連続 計12回(昭和31年〜38 40〜43 45年)
1シーズン100奪三振以上 3年連続 計7回(昭和33年 36 37 41〜43 45年)
1日2勝            2回(昭和41年8月7日 東京 昭和43年10月1日 阪急)
防御率ベスト10入り    5年連続 計8回(昭和32 33 37 41〜43 45年)
開幕投手           2回(昭和42 43年)
完投数最多投手       1回(昭和43年 27試合)
完封勝利最多投手     1回(昭和43年 8試合)
無四死球最多投手     1回(昭和43年 4試合)
日本シリーズ         5回出場(昭和34年 36 39〜41年)
オールスター戦        6回出場 選出は8回(昭和36 37年は登板機会なし)



〇掲載日 平成24年2月

〇執筆者 睫遏‐(米沢興譲館 同窓会 前会長)
             (皆川睦雄 高校時代のチームメイト)

〇編集 勝見弘一(置賜文化フォーラム)

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