歴史的土木遺産 石橋を訪ねて




 橋は生活に密着した交通網の一つで、今日も通勤、通学で橋を渡っているという人が多いのではないでしょうか。一口に橋といっても、木橋や鉄橋、吊り橋など様々で、時代や場所に応じて架設されてきました。アートなプチ旅に登場した米沢市の「住之江橋」や長井市の「長井橋」には地元ゆかりのブロンズ像が設置され、交通面だけでなく景観形成に一工夫が施されています。

 山形県置賜総合支庁のデータによると、2009(平成21)年4月1日現在、置賜管内の県及び市、町が管理している橋梁(きょうりょう)数は2,476橋に上ります。中には、建築から100年以上経過した今でも、補修を重ねて私たちの身近な道路橋としてその役目を果たしているものもあります。

 2009(平成21)年には、明治時代に架設された山形県内の石橋11橋が土木学会の選奨土木遺産に認定されました。このうち、置賜地域からは米沢市、南陽市、高畠町の2市1町に架設されている石橋6橋が選出されています。

 そんな山形県の橋梁工事の歴史を調べていくと、たびたび登場する人物が三島通庸(みしまみちつね・1835〜1888年)です。県内に残る石橋の中には三島の指示で建設されたものもあり、南陽市小岩沢にある石橋・吉田橋がその一つで、橋のそばにある説明看板には三島の業績も記されています。さらに、山形県の初代県令を務めた人で、"県令"は現在の知事職に相当し、道路や橋梁など公共事業を数多く進めてきたことを解説しています。

 置賜地方では、高畠石や中川石と呼ばれる凝灰岩が、石塀や石段、石垣などの製品用として切り出されていました。高畠石は現在も切り出されており、身近な場所に石切り場があったことが置賜の石橋建設に少なからず影響を与えたのかもしれません。

 橋を見るとき、大きさや作りはもちろんですが、名前にも注目してみてください。地域に由来する名前や長く残るよう縁起を担いだような名前が付けられています。このように、橋にはさまざまな歴史と思いが刻まれているのです。

 そこで、置賜管内で実際にみなさんが通行できる選奨土木遺産の石橋をご紹介します。一歩一歩踏みしめ、山形県土を切り拓いた交通行政と石工職人の思いを感じてみてください。

吉田(よしだ)橋=南陽市=


南陽市の文化財に指定されている吉田橋
 南陽市小岩沢地区を流れる前川に架けられた吉田橋。南陽市教育委員会によると、1880(明治13)年に山形初代県令の三島通庸が命じた土木事業の一つで、地元南陽市宮内の石工・吉田善之助(ぜんのすけ)が手がけました。橋の名前は石工の名前に由来するのだそうです。
 橋の長さは約12.6m、幅は約7.2m。柔らかいフォルムを持つ親柱(おやばしら)には力強く刻まれた「吉田橋」の文字が今もくっきりと残っています。
 現在、吉田橋を含むこの通りは、県道原中川停車場線と呼ばれていますが、その昔は主要街道である羽州街道(うしゅうかいどう)と呼ばれ、1881(明治14)年には明治天皇の東北御巡幸のルートにもなっていました。当時の名残でしょうか、近くには第3羽州街道踏切という名前の踏切もあります。
 親柱の付け根などにはセメントのようなもので補修された跡がありますが、長年の風雪にも負けず、2001(平成13)年11月に南陽市の文化財に指定されました。現在は北西側に一般国道13号上山バイパスが完成したため、車窓から吉田橋を目にする人は減ってしまっているかもしれませんが、歴史と風格を感じさせる吉田橋をぜひご覧になってはいかがでしょうか。

幸(さいわい)橋=高畠町=


道路拡幅工事に伴い、欄干部分等
が新設されて生まれ変わった幸橋
 高畠町幸町地内の主要地方道米沢高畠線に「幸橋」があります。
 1879(明治12)年から1998(平成10)年までの約120年間にわたって、行き交う町民たちの足元を支えてきました。まほろば通りの整備拡張工事に伴い、1998(平成10)年に復元されました。橋の長さを測ってみたところ、両端の親柱までの長さが約5.5m、欄干から川面までの高さは約2.5mでした。
 復元工事を実施した山形県置賜総合支庁によると、工事は、土砂の撤去から始まり、アーチ部分となる石材には一つ一つ認識番号を書き込み、架設状況を確認しながら分解していきました。その後、分解とは逆の順番で、認識番号をもとに石を組み上げていったそうです。
 道路が拡幅された分、橋の幅を補うため、橋を上流、下流部分で分割し、その間を函渠(かんきょ)と呼ばれるコンクリート製の天井付きの水路でつなぎました。
 さらに、高畠石を加工して欄干部分を新設したほか、根石(ねいし)と呼ばれる橋の土台に使われていた石を親柱に再利用しているそうです。
 現在、橋のたもとには幸橋の歴史を紹介する高畠町文化財保護会の案内板が設置されているほか、選奨土木遺産の石碑が建立されています。高畠町の歴史観光に訪れた際には足を止め、過去と現在の石を扱う職人技の融合を間近に見てください。

康寿(こうじゅ)橋=南陽市=


烏帽子山八幡宮参道に作
られた立体交差型の康寿橋
 南陽市赤湯の烏帽子山八幡宮(えぼしやまはちまんぐう)の参道石段を登っていくと現われる、石段に交差するように架設されている橋が「康寿橋」です。
 康寿橋たもとに設置されている説明看板には「吉田善之助の弟子である川合兄弟の作で、御神坂(おみさか)の石段や石塀も同じ頃につくられました。近代の洋風技術の導入をしるうえで重要なもの」と記されており、明治時代に整備された和洋折衷のデザインがところどころに隠れているようです。
 南陽市によると、橋の長さは約12.5m、幅は欄干部分を含めて約2m、地面からの高さは欄干を含めて約4.2m、手すりの部分は鉄パイプ状のものとなっています。
 ほかの石橋とは違い、道の上に架設されたいわゆる「歩道橋」で、橋の真下からアーチ部分を気軽に見ることができる数少ない石橋です。通行のための機能はもちろん、公園景観の役割を担っているのかもしれません。
 ちなみに、烏帽子山公園の整備は、明治時代に地元有志が集まって行ったといわれています。
 整った円柱形の親柱には「康寿橋」の文字が刻まれ、ほかの石橋とは違った洗練された雰囲気を醸し出しています。康寿橋からは、春は桜、秋は紅葉ごしの南陽市の街並みを一望することができ、市民の憩いの場所として親しまれています
 石橋の周辺には、巨シリーズ“巨石編”で紹介した烏帽子石や継ぎ目無しの石鳥居もあるので一緒に見て歩いてみてはいかがでしょうか。

蛇ヶ(じゃが)橋=南陽市=


橋の名前にちなんだ民話が伝わる蛇ヶ橋
 南陽市小岩沢地区の北川に架かっているのが「蛇ケ橋」。蛇(じゃ)橋、小巌(こいわ)橋とも呼ばれています。吉田橋を渡って道なりに進んでいくと現われますが、他の石橋と比べて小ぶりなこの橋は、冬季を迎えると雪に覆われ、見過ごしてしまうかもしれません。
 この蛇ヶ橋は、吉田橋から目と鼻の先の距離にありますが、欄干部分のデザインの違いは大きいです。どうしてこうも違うのかはわかりませんが、興味が尽きない蛇ヶ橋です。
 親柱付近の石は一部欠けたような跡がみられます。川幅が狭いため、橋の下に見られるアーチ部分も狭まくなり、その形がまるで馬の蹄(ひづめ)のように見えることから、馬蹄(ばてい)型と呼ばれるそうです。
 山形県内の選奨土木遺産に選出されている石橋の中では、蛇ヶ橋のように動物の名前がついているものは珍しく、その由来を探っていくとヘビにまつわる話が地元に残っていました。
 地元で語り部活動をしている夕鶴の里友の会会長の渡邊記美子さんによると、蛇ヶ橋がまだ木橋だったころ、洪水で橋が流れて村人が困っていると、多くのヘビが集まって縄橋のようになって、村人たちを渡らせた――という創作民話があるそうです。
 詳しいお話は、渡邊さんが「民話のふるさと」(安部惣七著)をもとに、地元の長老に聞き歩いてまとめた「中川の伝説」に記されています。
 地域の生活道として重要な役目を果たしている蛇ヶ橋について、渡邊さんは「今でこそ、たくさんの道路が整備されて不便に感じることは少ないでしょうが、昔は蛇ヶ橋がなければ地区内の北にも南にも行くことができなかったといいます。現在も通学路や通勤路として使用されています。そんな蛇ヶ橋の歴史や伝説を地域の財産として、子どもたちに語り継いでいきたいです」と話しています。

舞鶴(まいづる)橋=米沢市=


国の登録有形文化財に指定されている舞鶴橋
 米沢市丸の内の上杉神社を囲むお堀の東側に架設されている石橋が「舞鶴橋」です。上杉神社正面につながるこの舞鶴橋は毎年大勢の観光客らが通行しています。
 米沢市によると、舞鶴橋に関する史料が少なく、石工は定かではありませんが、橋の長さは5m、幅は7m、建設は1886(明治19)年だといいます。1998(平成10)年には国の登録有形文化財に指定されました。
 米沢市史編さん委員会が「米沢市史編集料第二十二号 新聞・雑誌資料集成」の編さん過程で、明治19年9月14日の出羽新聞記事から舞鶴橋落成の記事を発見しました。これにより、1985(昭和60)年ごろまでは不確かとなっていた建設時期が判明したそうです。
 2008(平成20)年度には、同市が城下町散策案内として舞鶴橋の説明看板を設置しました。看板には「舞鶴橋の名称は米沢城の別称舞鶴城に由来する」などと、名前のいわれや歴史について記述されています。
 ところで、舞鶴橋が石橋に架け替えられる前はどのような姿だったのか調べてみると、江戸時代の米沢城周辺を描いた「松岬城堞図(ちょうず)」(米沢市上杉博物館収蔵)に、石橋に架け替えられる前の木橋が描かれているほか、「大橋」という名前が記されています。
 また、米沢城の御殿(ごてん)に奉公していた西卯吉(にしうきち)の妻が当時の記憶をたどって描いたという「米沢城鳥瞰図(ちょうかんず)」(米沢市上杉博物館収蔵)には、米沢城周辺が克明に描かれています。お堀に架けられた橋を見てみると、東側の木橋(現在の舞鶴橋)のほかに、南側の通路と北側の通路が記されています。
 現在、南側には朱塗りの菱門橋がアーチを描いており、舞鶴橋と同様に説明看板には「なるほど」と手を叩きたくなるような由来が記されているので現地に足を運んでみてはいかがでしょうか。

        

 ○掲載日 平成23年5月

 ○執筆者 大竹茂美(置賜文化フォーラム事務局)

 ○取材協力者 山形県置賜総合支庁
           南陽市教育委員会
           米沢市都市計画課
           米沢市教育委員会
           渡邊記美子さん(夕鶴の里友の会会長)

 ○参考文献・資料 市村幸夫:山形の石橋,山形民俗,Vol.13,1999年11月,
              山形県民俗研究協議会
              井上肇,市村幸夫:山形の石橋,土木史研究,
              Vol.20,pp.337-348,2000年5月(公益社団法人土木学会
              <http://www.jsce.or.jp>で原文公開)


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