歴史の魅力は、『アニメ』『ゲーム』『漫画』と様々なジャンルで幅広い世代に浸透しています。歴女という造語も、すでになんの違和感もありません。 インターネットの世界では、地元住民も詳しく語ることができないような隠れたスポットに自ら足を運び、個人のホームページやブログで、写真とともに情報を発信している人も少なくないです。 いっぽう、置賜管内では米沢市の「かねたん」「けーじろー」や、甲冑姿で観光事業を盛り上げている「山形おきたま『愛』の武将隊」なども歴史ファンのすそ野を広げているのではないでしょうか。 置賜は、歴史ロマンの宝庫です。今回はバーチャルではなく、派手さこそ少ないですが【確かに感じる歴史の息遣い】ということで、置賜管内に伝わる城跡を幾つかご紹介したいと思います。一度訪れた場所でも、記事の中にまた新たな発見があるかも知れません。その時は、また足を運んでみてください。 それでは、いざ、SHIROATOへ! ≪置賜管内の主な城跡≫
≪城跡レポート≫ ここで、実際にまちへ繰り出し城跡をご紹介いたします。 |
今回訪れたのは川西町上小松の「原田城址」と川西町中小松の「小松城址」の2カ所です。川西町産業振興課職員の小林善久さん案内のもと、現在の城跡から当時の姿に思いを馳せていきます。
――残された史料が少なく、原田家の遺品は大変貴重なのですね。では、最後の城主となった原田宗時とはどんな人物だったのですか。
(小林さん)川西町史によると、宗時は18歳の若さで原田城主となり軍務を掌握していました。宗時が27歳のときに政宗の岩出山移封についていき、原田城は廃城となったと考えられています。
宗時は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の命に伴い、朝鮮半島の釜山に渡ったのですが、現地のはやり病に侵され、29歳という若さでこの世をさりました。
宗時と政宗を結ぶ逸話が残されています。それは、宗時の早すぎる死を悼んで政宗が「南無阿弥陀仏」の6文字を頭文字とした国風六首を捧げたという話です。政宗とは2歳しか違わず、厚い信頼を得ていたのかもしれません。
――現在、公園施設としてきれいに整備された置賜公園ですが、原田城とはどのような姿をしていたのでしょうか。
また、本丸と二の丸の間には空堀があります。深さは6mほどあったのではないかとみられますが、今は若干浅く、草木に覆われています。現在、この空堀には橋が架けられていますが、当時は北側に本丸に通じる道があったのではないでしょうか。
――一方、川西町役場から北へ車で5〜10分ほどの場所にある、川西町中小松の小松城址は、現在ゲートボール場などに整備されているほか、周辺は住宅に囲まれています。大手門に位置する場所には「小松城址」と刻まれた門が構えています。小松城とはどのような城だったのですか。
――小松城を囲むように残っている土塁が目を引きますが、住民の方たちにとって身近にある歴史的遺産に対する思いとはどのようなものでしょうか。
実はこの土塁に、歴史を大切にする地域住民の思いを象徴するエピソードが残されています。それは、1926年に米沢―今泉間が開通したJR米坂線の線路工事に伴い、小松城の土塁を切り崩して線路に敷く計画が浮上しましたが、地域の住民らが土塁を守る要望書を提出したそうです。この動きがあったからこそ、貴重な遺跡の土塁が今なお残されているのです。
――城跡にまつわる説明ありがとうございました。川西町には城跡のほかにも、伊達政宗を支えた片倉小十郎景綱にまつわる歴史や直江兼続の実弟・大国実頼にまつわる歴史など、まちあるきにピッタリな話題が豊富だそうです。川西町の歴史文化に浸ってみてはいかがでしょうか。
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○掲載日 平成23年 8月
○執筆者 大竹 茂美・勝見 弘一(置賜文化フォーラム事務局)
○取材協力 青木昭博さん 米沢市教育委員会文化課
神尾昭利さん 長井市教育委員会文化生涯学習課
金井利之さん 南陽市教育委員会スポーツ文化課
井田秀和さん 高畠町教育委員会社会教育課
小林善久さん 川西町産業振興課商工観光グループ
舩山一浩さん 白鷹町教育委員会文化振興係
佐原芳寿さん 飯豊町教育委員会教育文化課生涯学習室
○参考資料 「山形県中世館遺跡調査報告書 第1集(置賜地域)」
発行日:平成7年(1995年)3月
編 集:山形県教育委員会
「川西町史」
「飯豊町の歴史漫歩」
発行日:昭和63年3月31日
発行者:飯豊町教育委員会
「白鷹町の文化財(国・県・町指定)」
発行日:平成23年3月
発行者:白鷹町教育委員会
○写真提供 米沢市
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