城跡をたずねて

 今回訪れたのは川西町上小松の「原田城址」と川西町中小松の「小松城址」の2カ所です。川西町産業振興課職員の小林善久さん案内のもと、現在の城跡から当時の姿に思いを馳せていきます。
 まず、はじめに訪れたのは原田城址です。川西町役場から西へ約1.4劼納屬韮機腺隠以ほどの距離。現在は、置賜公園として活用されています。近くにはハーブ園やダリヤ園もあり、歴史と草花の香りが漂う史跡です。住民や観光客の憩いの場として親しまれています。

――原田城はいつごろ築城され、どんな人物が居城していたのですか。



 歴史の魅力は、『アニメ』『ゲーム』『漫画』と様々なジャンルで幅広い世代に浸透しています。歴女という造語も、すでになんの違和感もありません。
 インターネットの世界では、地元住民も詳しく語ることができないような隠れたスポットに自ら足を運び、個人のホームページやブログで、写真とともに情報を発信している人も少なくないです。

 いっぽう、置賜管内では米沢市の「かねたん」「けーじろー」や、甲冑姿で観光事業を盛り上げている「山形おきたま『愛』の武将隊」なども歴史ファンのすそ野を広げているのではないでしょうか。

 置賜は、歴史ロマンの宝庫です。今回はバーチャルではなく、派手さこそ少ないですが【確かに感じる歴史の息遣い】ということで、置賜管内に伝わる城跡を幾つかご紹介したいと思います。一度訪れた場所でも、記事の中にまた新たな発見があるかも知れません。その時は、また足を運んでみてください。

それでは、いざ、SHIROATOへ!




≪置賜管内の主な城跡≫


 【米沢城】(よねざわじょう)

歴史:伊達氏によって整備され、慶長6年に上杉氏が会津120万石から米沢藩30万石に減封されると、直江兼続の指揮で上杉氏の居城として拡張整備されました。以後、幕末まで歴代藩主が居住し、明治維新後に城は破却され公園として開放されました。

構造:本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の平城。天守閣は築かれず、三層の隅櫓(すみやぐら)がありました。現在、本丸の土塁・堀が残っています

所在地:山形県米沢市丸の内1丁目周辺。目標は上杉神社。MAP


 【舘山城】(たてやまじょう)

歴史:天文17年(1548)に家督を継いだ伊達晴宗は、これまでの桑折西山城「福島県桑折町」を破却して本拠を米沢に移しました。その際の拠点となったのが舘山城と考えられています。以後、米沢の支配は輝宗・政宗と続きますが、天正19年(1591)豊臣秀吉の命で政宗は、岩出山城「宮城県大崎市」に居城を移すことになります。米沢市は史跡整備を前提とする範囲確認及び性格把握を目的とした調査を平成22年から5ヵ年計画で進めています。

構造:米沢市の南西部を流れる大樽川と小樽川に挟まれた丘陵を縦堀と掘切、土塁で区画した山城です。山城の周囲には舘山南館・舘山東館・舘山北館といった平坦面が存在し、北館からは重複した家臣団の屋敷群、南館からは庭園の一部や井戸跡等が検出されています。

所在地:山形県米沢市舘山周辺。目標物は舘山発電所。MAP



 【宮沢城】(みやざわじょう)

歴史:伊達の家臣・大津土佐守が居住していたと伝えられる、南陽市内最大規模の城跡。最後の城主となったのは尾崎三郎左衛門重誉で、尾崎家は直江兼続の実母の実家。尾崎が福島へ移ると宮沢城は廃城となりました。尾崎氏の国替え400年を記念し、長野県飯山市の関係者が1998年に標柱を設置しました。

構造:石垣のない土塁で築かれ、現在城址は果樹園、周囲の堀は水田として使用されています。

所在地:山形県南陽市宮内周辺。目標物は熊野大社北側。MAP


 【高畑城】(たかばたけじょう)

歴史:承安年間(1171〜1174)に、藤原秀衛のいとこの樋瓜五郎季衡(ひづめごろうすえひら)による築城と伝えられています。天授6年(1380)から約150年にわたって、伊達家の居城だったといいます。

構造:形状が釣鐘に似ていることから、別名「鐘ヶ城」とも呼ばれていたそうです。現在の高畠町立高畠小学校付近が本丸跡、西へ約100m付近が大手門にあたります。同小学校前に残るお堀が当時の名残です。

所在地:山形県高畠町高畠周辺。目標物は高畠小学校。MAP



 【原田城】(はらだじょう)

歴史:伊達家家臣の原田氏が居城。1591年に廃城。最後の城主となった原田宗時は大河ドラマ「樅の木は残った」で主人公となった原田甲斐宗輔の祖父の代にあたります。

構造:本丸跡は現在の置賜公園西側にある野外ステージのある平場にあたり、二の丸は真斉の墓が建立されている広場付近。北東にはくるわとみられる壇があり、物見台があったと考えられています。

所在地:山形県川西町上小松周辺。目標物は置賜公園。MAP


 【小松城】(こまつじょう)

歴史:鎌倉時代に船山因幡守によって創建され、のちに伊達家臣の大町氏が支配しました。その後、宿老奉行桑折景長、牧野久仲が城主に入ったと伝えられています。元亀元年(1570)、中野宗時の乱により廃城となりました。

構造:連郭式の平城で本丸跡が残ります。天守閣を持たず、お堀と土塁で囲まれていました。現在の新山神社、仏成寺は城郭の敷地に含まれており、本丸は公園兼グラウンドゴルフ場、北の丸は町営団地として整備利用されています。

所在地:山形県川西町中小松新山周辺。目標物は新山神社。MAP

【小桜城】(こざくらじょう)(宮村館・卯の花の館)

歴史:伝承によると、平安時代に安部貞任(あべのさだとう)が源義家の攻撃に備えて館を構え、娘の卯の花姫を遺して館を築かせたといわれています。1380年に長井氏を追放した伊達氏が鮎貝氏を警戒し、卯の花館の跡地を修復し宮村館を築いたとされます。この宮村館は1591年に伊達氏の岩手山移封で廃城となっています。

構造:江戸中期までは濠や土塁が残されていたことが、鈴木二流の「ふたり笠」に記録が残されています。現在、小桜館(旧西置賜郡役所)の正面に案内看板が設置されています。

所在地:山形県長井市大町周辺。目標物は小桜館(旧西置賜郡役所)。MAP

 【鮎貝城】(あゆかいじょう)

歴史:応永3年(1368)鮎貝成宗により築城されたと伝えられ、江戸時代には、この館の一部が米沢藩の御役屋として使用されていた。城は最大規模のときには、東西650m、南北650m(中丸を入れる)、町屋を囲む外堀を入れると東西950mにもなります。江戸時代には、この館の一部が米沢藩の御役屋として使用されました。

構造:最上川左岸の河岸段丘上に築かれた平山城。鮎貝氏時代の本丸は、八幡宮北西の「御役屋」の東側にあり、御役屋時代には本丸は本庄氏家臣の屋敷でした。

所在地:白鷹町大字鮎貝3303他。目標物は鮎貝八幡宮。MAP

 【荒砥城】(あらとじょう)

歴史:「石那田城」、「八乙女城」とも呼ばれるこの城は、伝承では、源義家がこの地に岩清水八幡宮を勧請したのが、初源とされ、その後栄長年間に荒川次郎が城を築いたとされます。江戸時代になってからは、現在の荒砥地区公民館にある郭面に御役屋がおかれ当地管轄の中心となっていました。

構造:最上川右岸の独立丘を削り帯郭、腰郭、空堀を巡らせた平山城。二の丸と根小屋を囲む水濠の一部、町屋を囲む堀跡の一部が今も確認されています。

所在地:白鷹町大字荒砥甲楯廻1092他20筆。目標物は八乙女八幡神社。MAP


 【萩生城】(はぎゅうじょう)

歴史:伊達家家臣の国分氏が居城していました。豊臣秀吉により伊達政宗が岩出山に移封されたことから、国分氏も主君に従い、萩生城を去ったといわれています。本丸跡に残る土塁は昭和62年(1987)3月26日に飯豊町の文化財に指定されました。

構造:複郭式の平城で、本丸西側に出丸を配置していたと考えられます。現在、本丸跡は城址公園となり、地域住民の憩いの場として親しまれています。

所在地:山形県飯豊町萩生周辺。目標物は萩生城址公園。MAP






≪城跡レポート≫


 ここで、実際にまちへ繰り出し城跡をご紹介いたします。

 (小林さん)原田城には、伊達家家臣の原田家が居城していたと推測されていますが、築城年代は定かではありません。最後の城主は原田宗時(1565〜1593)です。原田城については史料がほとんど残っておらず断定するのが難しいのが現状です。原田家が伊達家のお家騒動(寛文事件)の処罰として、記録のほとんどが抹消されてしまったことからで、今後の研究がまたれるところです。

――残された史料が少なく、原田家の遺品は大変貴重なのですね。では、最後の城主となった原田宗時とはどんな人物だったのですか。

 (小林さん)川西町史によると、宗時は18歳の若さで原田城主となり軍務を掌握していました。宗時が27歳のときに政宗の岩出山移封についていき、原田城は廃城となったと考えられています。
 宗時は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の命に伴い、朝鮮半島の釜山に渡ったのですが、現地のはやり病に侵され、29歳という若さでこの世をさりました。

 宗時と政宗を結ぶ逸話が残されています。それは、宗時の早すぎる死を悼んで政宗が「南無阿弥陀仏」の6文字を頭文字とした国風六首を捧げたという話です。政宗とは2歳しか違わず、厚い信頼を得ていたのかもしれません。

――現在、公園施設としてきれいに整備された置賜公園ですが、原田城とはどのような姿をしていたのでしょうか。

 (小林さん)自然の地形を生かしたいわゆる「平山城」です。置賜公園西側の野外ステージがある平場に本丸があったのではないかとみられ、遊歩道や東屋が整備されている公園東側に二の丸があったのではないかと考えられています。二の丸北東には土などで城を取り囲む「くるわ」とみられる壇があり、物見台があったのではないかと考えられています。

 また、本丸と二の丸の間には空堀があります。深さは6mほどあったのではないかとみられますが、今は若干浅く、草木に覆われています。現在、この空堀には橋が架けられていますが、当時は北側に本丸に通じる道があったのではないでしょうか。

――一方、川西町役場から北へ車で5〜10分ほどの場所にある、川西町中小松の小松城址は、現在ゲートボール場などに整備されているほか、周辺は住宅に囲まれています。大手門に位置する場所には「小松城址」と刻まれた門が構えています。小松城とはどのような城だったのですか。

 (小林さん)小松城は800年ほど前、鎌倉時代に築かれた城ではないかと考えられています。幕府から東北地方を任された長井時広の家臣・舩山因幡守が城主となりました。その後、伊達家が置賜を支配し始めると、伊達家の家臣・大町氏、桑折播磨守景長らが居城していました。小松城主を務めていた伊達家の家臣の牧野久仲が1570年、父・中野宗時とともに伊達家に反旗を翻しました。この内乱で、首謀者の牧野と中野が死亡したことにより、小松城は廃城となったのです。

――小松城を囲むように残っている土塁が目を引きますが、住民の方たちにとって身近にある歴史的遺産に対する思いとはどのようなものでしょうか。

 (小林さん)以前は新山中学校敷地として利用された小松城址ですが、現在は本丸跡が公園兼グラウンドゴルフ場、北の丸は町営団地として幅広く利用されています。お堀は道路建設によって埋め立てられましたが、高さ1〜2mほどの土塁は周囲を取り囲むように残っています。

 実はこの土塁に、歴史を大切にする地域住民の思いを象徴するエピソードが残されています。それは、1926年に米沢―今泉間が開通したJR米坂線の線路工事に伴い、小松城の土塁を切り崩して線路に敷く計画が浮上しましたが、地域の住民らが土塁を守る要望書を提出したそうです。この動きがあったからこそ、貴重な遺跡の土塁が今なお残されているのです。

――城跡にまつわる説明ありがとうございました。川西町には城跡のほかにも、伊達政宗を支えた片倉小十郎景綱にまつわる歴史や直江兼続の実弟・大国実頼にまつわる歴史など、まちあるきにピッタリな話題が豊富だそうです。川西町の歴史文化に浸ってみてはいかがでしょうか。


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○掲載日     平成23年 8月

○執筆者     大竹 茂美・勝見 弘一(置賜文化フォーラム事務局)

○取材協力    青木昭博さん 米沢市教育委員会文化課
           神尾昭利さん 長井市教育委員会文化生涯学習課
           金井利之さん 南陽市教育委員会スポーツ文化課
           井田秀和さん 高畠町教育委員会社会教育課
           小林善久さん 川西町産業振興課商工観光グループ
           舩山一浩さん 白鷹町教育委員会文化振興係
           佐原芳寿さん 飯豊町教育委員会教育文化課生涯学習室


○参考資料    「山形県中世館遺跡調査報告書 第1集(置賜地域)」
           発行日:平成7年(1995年)3月
           編  集:山形県教育委員会
           「川西町史」
           「飯豊町の歴史漫歩」
           発行日:昭和63年3月31日
           発行者:飯豊町教育委員会
           「白鷹町の文化財(国・県・町指定)」
           発行日:平成23年3月
           発行者:白鷹町教育委員会

○写真提供    米沢市
           川西町
           白鷹町

○関連ページ  米沢市 長井市 南陽市 高畠町 川西町 白鷹町 飯豊町 


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