躍動する置賜の獅子踊り1




 置賜地域の各地には、米沢市の梓山(ずさやま)獅子踊、綱木(つなぎ)獅子踊、川西町の小松豊年獅子踊、長井市の平山獅子踊、五十川(いかがわ)獅子踊、小国町の五味沢(ごみざわ)獅子踊など、個性豊かな獅子踊りが伝わっています。
 中には、やむなく活動を休止するところもありますが、地元の小学校や中学校と連携し、子どもたちに獅子踊りを継承する団体もあり、地域の貴重な財産として保存活動に励んでいます。
 ここでは、梓山獅子踊、小松豊年獅子踊、綱木獅子踊の3つの獅子踊りについて、歴史や踊りの内容、後継者育成の取り組みなどについて紹介します。


1 梓山(ずさやま)獅子踊 〜全国にとどろく梓山の獅子〜

 置賜地域の水がめ・水窪ダムの北側に位置する万世町梓山(ばんせいちょうずさやま)地区。地区内には米沢市と福島市を結ぶ国道13号が通っており、米沢市街地への玄関口として多くの交通量があります。
 そんな梓山地区に伝わる梓山獅子踊は、悪霊退散と豊作などを願って、毎年8月15日に地区内の松林(しょうりん)寺、翌16日に法将(ほうしょう)寺で奉納されています。
 伝統を長く守り継いできたことも評価され、1992(平成4)年、山形県無形民俗文化財に指定されました。2008(平成20)年には東京国立劇場で開催された「山形出羽の芸能」で梓山の踊りを披露し、全国に梓山の名前を広めてきました。


勇壮な踊りが特徴的な梓山上組獅子踊
 梓山獅子踊保存会は、上組と下組の2つの獅子踊りから組織されている珍しい保存団体。上、下それぞれ違った演目を継承しており、身近な地域どうしなのになぜ2つの踊りが伝わっているのか、非常に興味深いです。

 保存会長の山田長一さんによると、梓山獅子踊は栃木県発祥とされる関東文挟流(かんとうふばさみりゅう)の流れをくむものではないかと伝えられています。踊りの曲目や型を記した巻物が今も残っているそうで、上組の巻物は市立米沢図書館で、また下組の巻物は庭元と呼ばれる梓山地区の名士のもとで、それぞれ大切に保管されています。

 その歴史を紐解くと、下組には「疫病が流行した1574年、春彼岸の時に7日間にわたって獅子踊りを奉納すると災いから逃れることができる」との教えを受けたのが始まりだと伝えられています。

 一時、踊りが途絶えましたが、1797(寛政9)年から約20年にわたって3種類の踊りを習得したと伝えられており、これが今も下組に伝わる「大和舞」(やまとまい)「春日舞」(かすがまい)「三笠舞」(みかさまい)にあたります。

 梓山獅子踊の見どころは踊りだけでなく、「庭」と呼ばれる踊りの舞台まで纏(まとい)や提灯(ちょうちん)などを手に練り歩いていく行列にもあります。舞台に向かうその行列から梓山獅子踊は始まっているのです。

 また、踊りを奉納する前に、大纏が行う「口上」も特徴的です。まるで演劇の始まりを見ているようです。口上とは踊りを始める前に行うあいさつで、「東西、東西、はばかりながら一寸御免こうむりまして、そそうなる拙者口上なもって申し上げ奉りまする〜〜」と軽妙に語り始め、踊りの歴史や会場などを紹介していきます。今で言うところの自己紹介にあたり、保存会のメンバーは毎回耳にしているため、そらで口ずさめる人も多いそうです。

 梓山獅子踊の演目には、上組の「鶏徳舞」(けいとくまい)「梵天舞」(ぼんてんまい)「花吸舞」(はなすいまい)、下組の「大和舞」「春日舞」「三笠舞」があります。

一般的に優雅な踊りと紹介される梓山下組獅子踊
  よく梓山獅子踊は、上組は男性的で豪快な踊りで、下組は女性的で優雅な踊りだと紹介されます。実はこの違い、獅子頭に秘密があるのです。

 獅子頭を頭に乗せて幕で顔を覆うタイプもありますが、下組は獅子頭をすっぽりとかぶってしまうタイプです。そして獅子頭の口の部分から外をのぞき見るため、視野が狭くなり踊りの動きが制限されるのだそうです。そのため、踊りの切り返しの場面では、中立(なかだち)という役の打つ太鼓が視野の狭い獅子の踊り手を誘導していくのだそうです。下組は一見優雅に踊りを披露しているようですが、聴衆の見えない所に踊り手の苦労が隠されていたのでした。

 梓山獅子踊の組み分けは、梓山1〜3地区と4地区の一部が上組、北側に位置する5地区と4地区の一部が下組となります。ちょうど国道13号を境界線とするように南北に分かれる形です。
 上組、下組それぞれ約30〜40人の会員を数え、獅子の踊り手や提灯、太鼓、纏など踊りに直接携わる人もいれば、後進の指導を務める人など様々。
 上、下組合わせて約80人というとけっこうな大所帯ですが、他地域と同様に後継者不足が課題となっています。以前は父、子、孫と3世代にわたって取り組み、父が師匠を務める場合が多かったそうですが、郷土芸能を取り巻く環境は大きく変わってきました。
 そのため、20年ほど前から地区内の子どもたちを対象に子ども獅子踊を指導し、梓山の文化継承に力を入れているとのこと。
 お盆の頃、梓山地区で獅子の行列を見かけたら足を止め、豪快な踊りと優雅な踊りを見比べてみてください。


       


2 小松豊年獅子踊 〜火の輪くぐりに秘められた牝獅子の心〜

 置賜地方の中心近くに位置し、米沢、南陽、長井、高畠、飯豊の3市2町に隣接する川西町。豊かな田園風景と国指定史跡の下小松古墳群が織りなす歴史と自然の豊富な同町に、火の輪をくぐる勇壮な小松豊年獅子踊が伝えられています。
 火の輪に見立てた花輪をくぐる獅子踊りはよく見られますが、実際に燃え盛る火の輪をくぐり抜ける獅子踊りはとても珍しいです。その豪快さから、踊りの山場を写真に収めようと、毎年夏に行われる獅子踊りの奉納には多くのカメラマンが詰めかけるほどです。

 小松豊年獅子踊保存会によると、小松豊年獅子踊は、平安時代に現在の置賜公園=川西町上小松=付近にわび住まいをしていた徳一上人(とくいちしょうにん)という高僧を慰めようと、地元の住民が踊ったことが始まりだと伝えられています。上杉藩が同地区を治めていた時代には豊作の年のみ踊りが許されたことから「豊年」の文字が名前に加わったそうです。

 小松豊年獅子踊を紹介するパンフレットやホームページで表紙に取り上げられるのが、火の輪くぐりの場面です。主要演目として「前の庭」「中の庭」「末の庭」があり、火の輪くぐりの場面は「中の庭」で見ることができます。初めて見る人には火の輪をくぐる勇壮な姿から、牡の獅子が飛んでいるのかと思われがちですが、くぐるのはじつは牝獅子で、「牝獅子狂い」と呼ばれています。

 本来、火を嫌う獣がなぜ火の輪に向かっていくのか疑問に思う人がいるかもしれません。この場面は子獅子をさらわれた母獅子が探し歩き、狂った様子が表現されているのだそうです。火の輪をくぐることで、母獅子の子どもを思う気持ちが伝わってきます。


小松豊年獅子踊のクライマックスを飾る火の輪くぐりの場面
  一方、実際に牝獅子を演じている人はというと、少なからず危険が伴い、勇気と経験が必要です。練習を重ねてきたとはいえ、実際に火を点けるのは本番だけだそうで、演技者の緊張感は相当なものでしょう。火の輪に注意を払うのはもちろんですが、くぐり抜けたその後にも危険が潜んでいます。アスファルトなど地面に向かって、素手で飛ん込んでいくため、着地するまで気を抜くことはできません。

 また、火の輪持ちとのコンビネーションも重要です。火の輪持ちは、牝獅子役の足が曲がったりして輪にひっかかりそうになれば、すかさずうまくくぐり抜けられるように輪を移動するのです。踊り手の経験と信頼関係が華やかな場面を支えていたのです。

 小松豊年獅子踊の獅子頭はすべて黒色で、また衣装は紺色が牡獅子、橙色が牝獅子、黄色が供獅子となっています。そのほか、太鼓を持つ仲立、花笠、早乙女、纏持ちなどがいて、1回の踊りには20人前後が参加します。
 毎年、8月16日に置賜山大光院(だいこういん)、8月27日に諏訪神社にそれぞれ踊りを奉納しています。そして、奉納を終えると町内を練り歩き、商店前などで踊りを披露します。前、中、末の3庭すべてを披露すると50分ほどかかるため、普段は「中の庭」のみを披露しているそうです。 

 1972(昭和47)年ごろから、後継者育成のため町立新山(しんざん)中学校に郷土芸能クラブがつくられ、夏休み中に生徒たちが小松豊年獅子踊の練習に取り組んできました。時を経て中学校の名前が町立第1中学校と変わった現在も、郷土芸能クラブは継続されています。当時の参加生徒が今では立派な継承者として獅子踊りを披露しているそうです。
 また、同保存会のホームページで踊りの動画を見ることができます。踊りを直接見に行くことができない方は、ホームページから伝統の獅子踊りを堪能してください。


       



 3 綱木獅子踊 〜故郷を離れても、心に刻む綱木の獅子〜 


山あいに受け継がれてきた綱木獅子踊
米沢市の南西部、福島県との県境近くに位置する綱木地区。県道綱木米沢停車場線や県道綱木小野川舘山線から訪れることができる同地区は、直江兼続が道路づくりの目印にしたと伝わる兜山(かぶとやま)が東側にそびえています。
 そんな山あいに受け継がれてきた綱木獅子踊り。生活様式の変化などから地区内の住民は少なくなりましたが、踊り手の方々がつくる綱木獅子踊り保存会に加え、支援団体の綱木地区獅子踊りを考える会が活動をサポートし、今も踊りを奉納し続けています。

 綱木地区は、福島県会津地方と置賜地方を結ぶ宿場町として栄え、栃木県発祥の関東文挟流や会津彼岸獅子(あいづひがんじし)の流れをくむ関東肥挟(ひばさみ)踊りが代々伝えられてきました。
 地区内では度重なる火災で、獅子踊りに関する文献は消失しているものの、数百年の歴史があると考えられています。

 歴史ある綱木の獅子頭は、伊勢の天照(てんしょう)皇大神宮などのお札(ふだ)を漆で塗り固めて作られているそうで、今なお現役で活躍しています。
 獅子頭を踊りに使う際には、地域の公民館で踊り手メンバーらが神事を執り行うそうです。もちろん、踊りを奉納した後も再び神事を行ってから保管しており、獅子頭に対する思いの深さが伝わってきます。

 2009(平成21)年には、数十年ぶりに獅子頭の修繕を依頼したそうで、2010(平成22)年8月15日に行われた獅子踊りの奉納で生まれ変わった姿を披露しました。
 ちなみに、以前の獅子頭と修繕された獅子頭の写真を見比べてみると、その違いは……。初心者が違いを判別するのは難しいです。

 綱木獅子踊は、関東肥挟踊り、角田(かくた)中村踊り、十七下り(じゅうしちくだり)の3部構成で、全てを踊ると3時間余りかかるそうです。さらに、道中流しといって、地区内の家を一軒一軒巡り、先祖の霊を慰め、踊り終えるのは実に3日3晩かかっていたそうです。
 現在は、毎年8月15日に円照寺(えんしょうじ)跡地で踊りを奉納しています。一時、踊り手不足などから1時間ほどに短縮して奉納していたそうですが、後継者育成が実を結び、再び全ての演目を披露するようになったそうです。

お札を漆で塗り固めて作られた獅子頭

  綱木地区を離れた住民が里帰りをした際、かつて仏間があった場所で獅子踊りをしてほしいと願い出をうけたこともあったそうです。綱木獅子踊りがかけがえのない遺産として住民の心に深く刻みこまれている証です。

 保存会会長の佐藤弘一(さとうこういち)さんによると、綱木の獅子踊りにはこんないわれがあるそうです。
 綱木地区は南から北へ下り坂となる地形で、道中流しの際は南から北の方に向かって進んでいくそうでした。そのため、「下り獅子」といわれていましたが、あるとき、北から南へと逆に進んだそうです。その翌年、地区内が大火に見舞われる不幸がおきたそうで、再び伝統にのっとり南から北へと道中流しを行ったそうです。長い歴史の中には不可思議なことがあるものです。

 現在、綱木獅子踊り保存会には約40人、考える会には約30人が参加しているそうで、4、5年前から笛の担当者に女性が加わりました。
 民俗芸能の世界は一般的に男性メンバーが多い中、保存会や考える会メンバーらが議論を重ね、女性メンバー加入を認めることになりました。民俗芸能に限らず、文化継承が難しい現代において一つの可能性を示した綱木獅子踊りを、一度見に訪れてはいかがでしょうか。



《躍動する置賜の獅子踊り その2につづく》




         



○掲載日   平成22年11月

○執筆者   大竹 茂美(置賜文化フォーラム事務局)


○取材協力   山田長一さん(梓山獅子踊保存会・梓山下組獅子踊保存会会長)
          後藤哲雄さん(小松豊年獅子踊保存会メンバー)
          佐藤弘一さん(綱木獅子踊り保存会会長)
          雨田秀人さん(綱木地区獅子踊りを考える会会長)
          菊地和博さん(東北文教大学短期大学部教授)


○写真提供   梓山獅子踊保存会
          小松豊年獅子踊会
          綱木地区獅子踊りを考える会

○関連ページ   小松豊年獅子踊






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