1 なぜ上杉鷹山が高い評価を受けるのか 上杉鷹山といえば,江戸時代の後半に米沢藩の第9代藩主として,困窮した藩財政を再建したことで知られています。しかし財政難は,江戸時代前半の急速な商工業経済の伸張によって幕府や全国諸藩に共通した問題でしたから,単に「財政再建」というのであれば,全国に他例はたくさんありました。にもかかわらず,上杉鷹山の財政再建や藩政改革が有名なのには,それだけの理由があります。ここでは,そのうち主要なものを3つ挙げてみようと思います。 ■最悪な状態からのスタート
そもそも上杉家は,豊臣秀吉によって会津120万石と佐渡金山を与えられていました。それは,関東に配した徳川家康の背後を押さえ,岩出山に移した伊達政宗(のち仙台に移る)を封じるために秀吉が必要と判断した財力でした。そして秀吉の没後,上杉家は石田三成と連携して,徳川家康と正面から対立します。しかし関が原の戦は家康が勝利。家康は上杉家を潰すことなく米沢30万石に減封します。なおも続く対立構造の中で軍事力を維持しなければならない上杉家は,120万石規模の家臣団をそのまま抱え続けました。財政担当の直江兼続は,徹底した支出削減によって上杉家を50万石で経営する見通しを立て,積極的な新田開発や青苧(高級麻織物の原料)販売などによって52万石の実収入を実現させたのです。ところが,第3代藩主上杉綱勝が急死すると,跡継ぎをめぐる混乱から米沢藩は15万石に減封されてしまいます。加えて,養子に入った吉良上野介義央の子,そして孫・曾孫たち(第4〜8代藩主)が放漫な経営を行い,さらには吉良家の財政負担の多くを肩代わりしたために,米沢藩の財政は急激に悪化しました。全国的に見て,これだけの悪条件が重なった藩は他例がありません。危機感を抱いた一部の藩士たちは,養子に迎えられ元服したばかり(数え年15歳)の鷹山に,藩再建のすべてを託したのです。 ■鷹山の堅実さ,堅実さ もちろん,鷹山の成功の背景には,彼を支える沢山の人々がいました。鷹山や藩士たちを導いた,細井平洲をはじめとする学者たち,藩再建に知恵を絞った幹部たち,同じ目的に向かって自分の持ち場で尽力した中級家臣たち,半士半農の生活を誇りに感じ藩政・藩社会の土台を守った下級藩士たち,米沢藩を見捨てず指導し続けた商人たち…。それでも,彼らの力が引き出され,一つ方向に束ねられ生かされていくためには,やはり優れたリーダーが必要でした。上杉鷹山の人柄,あらゆる人や物事に対する姿勢,学問に励む姿…に導かれてこそ,改革は実を結んだと言えるでしょう。 ■良質な社会の実現 良質な社会の実現にとって必要なのは,経済(産業・財政など)と倫理(学問・教育・文化など)のバランスです。かつては上杉謙信や直江兼続が体現し,その後の幕府政治の不安定さが証明してきたバランスの大切さに,鷹山は当初から気づいていました。そこで鷹山は,米沢藩の再建を,大倹令(財政策)と藩校設立(学問教育)に同時に取り組むところからスタートさせたのです。そして鷹山自身,生涯を通じて倹約と学問に励みました。 鷹山の確固たる政治思想・社会思想は学問に導かれたものです。鷹山を導いた学者は何人かいますが,とくに大きな影響を与えた細井平洲の学問は,日々の現実を重視したものでした。そのため鷹山は,理論理屈に従うだけでなく現実から学ぶ姿勢を持ち,自ら判断し行動する力に長けていたのです。経済(現実)と倫理(学問)のバランス感覚に優れた鷹山は,新規と伝統,権力と人情,組織と個人,対外と内政などのバランスを保つ力がありました。臨機な選択,優先順位の判断,偏りのない手配などなど,単純な正義や常識では説明できない鷹山の優れた行動には,現実主義の学問に基づく確かな裏づけがあったのです。 鷹山の改革は,存命中より儒学者たちによって高く評価され,全国に紹介されています。そして,鷹山自身が老中松平定信より,第11代藩主上杉斉定(なりさだ)が第11代将軍徳川家斉によって鷹山以来の善政を表彰されています。鷹山は,現代の鷹山びいきの地元民によってではなく,当時の全国の人々によって評価された「名君」だったのです。 2 上杉鷹山の魅力 鷹山は,決してヒーローではありません。彼の改革は,天才の偉業などではなく,試行錯誤と努力の連続でした。彼の言動は神がかり的なものではなく,学問に導かれ誠意に溢れた,等身大の人間の姿でした。彼は特別な人格や能力の持ち主ではなく,素直で明るく,感謝に溢れた謙虚な人物でした。 ■「鷹山」の雅号 鷹山は,10歳(数え年)で上杉家の養子となる以前,兄(鷹山の生家である高鍋藩秋月家を継ぐ)が自分の雅号(文書家・学者・書家などが本名以外につける別名)を「鶴山」としたのを真似て,「鷹山」の雅号を考案しました。まだ詩歌が何たるかもわからない年齢です。ただ大好きなお兄ちゃんのあとを追いかける,素直で無邪気な少年鷹山の姿がそこにあります。家族や家臣たちに大事に育てられて形成されたまっすぐな人格は,鷹山の生涯を通じて変わることはありませんでした。 ■いただき橋 上杉家の養子になることが決まった鷹山に確かな学問を身につけさせようと,米沢藩の儒医藁科松伯は良師を探し求めました。そうして出会ったのが,後に尾張藩(徳川御三家筆頭)藩校明倫堂の督学(学長)となる儒学者細井平洲でした。鷹山は14歳より平洲の教育を受け,学問を通じて社会のことや生き方を学びました。 ■鷹山の倹約 鷹山の晩年,米沢藩の財政も危機を脱し,健全な状態になりました。しかし鷹山は独り,17歳で自らが始めた倹約を続けていました(藩民に出された倹約令は期限付き)。そこで第11代藩主斉定が鷹山の生活費用増額を申し出ると,鷹山はこれを拒み,その理由を「倹約は私の“厳師友”である」と説明しました。すでに師である細井平洲も他界し,目前の困難も去ったいま,鷹山は人として道を踏み外さないための導きを「倹約」に求めていたのです。「倹約」は,単なる経済的な効果にとどまらず,欲望に打ち勝ち流されないことで理性を失わず,物を大切に使用することで謙虚さや敬い,そして感謝の心をはぐくむという,倫理的な成果を生み出します。鷹山の指導者の一人である儒学者渋井太室も「一度に恵みを与えてもかえって今以上の害になる恐れがある」と言っています。そして,鷹山のお金の遣い道は,学問や教育,民の救済と安定,敬老でした。“師”として鷹山を導き“友”として鷹山を支えた「倹約」とは,誰のため,何のためにお金を遣うかを追究することで人間としての在り方をも追究した,彼の人生哲学だったと言えましょう。 日本経済が最も膨張した昭和末年のバブル期は,「倹約」とは正反対の経済感覚でした。欲望が満たされることがあたり前の人たちは,自分の「納得できない」事態に出くわしても,その解決方法を探る力がありません。そのため,その解決を他人に求め,他人を批判します。かつては「苦労は買ってでもしろ」という教訓が知られていましたが,苦労(倹約)を師友とし,「自分の楽」のためではなく「他人の楽」(自分の苦労)のためにお金を遣おうとした鷹山は,困難から逃げることなく自らの責任で解決しようとした,米沢藩の大黒柱だったのです。 ■七家騒動 鷹山が藩主となって6年目の6月27日,「七家騒動」と呼ばれる事件が起きました。7人の重臣たちが鷹山の改革を真っ向から批判し,改革推進の中心人物竹俣当綱(たけのまたまさつな)の罷免を迫ったのです。鷹山はすぐさま各部署の担当者数百名を集めて批判内容の真偽を確かめ,前藩主重定とも相談し,7人の武力抵抗への備えも整えた上で,騒動を起こした7人に処分を下しました。その内容は,2名が切腹,5名が隠居・閉門でそのうち2名は領地半分没収,3名は領地300石没収。7月1日のことでした。独断に走らず,慎重に事を進めた手腕もさることながら,驚くべきはその迅速さです。迷いの無いその姿が,どれほど藩士たちの信頼を勝ち得たかは容易に想像できます。研究者たちは,この七家騒動に対する対応の適確さが,鷹山のその後の改革を軌道に乗せたと評価しています。 3 財政再建 ■大倹令 財政改革でもっとも重要なことは,赤字体質の改善です。これが無いままに収入増を図ってみても,借金は増えるばかりでしょう。鷹山は「大倹令」の中で,赤字体質の正体を次のように指摘しています。 「泰平久しきゆえ,いつとなく風俗も奢(ぜいたく)に成りそうろうゆえに,今これが我相応と思いおりそうろうが直ちに奢にてそうろう。」 社会全体が豊かになり,生活水準が上がってくると,「普通」の生活が実はぜいたくなのだ,ということです。それが,完全にその社会の実力の果実であれば問題は無いのでしょうが,豊かさを支えるために行政府が借金をしているとなれば,それは大問題なのです。しかし,借金に慣れぜいたくが染み込んでしまった人々は,そこに新たな収入があると喜んで使ってしまうばかりか,安心して更なる借金を重ねてしまうもの。そこで,この赤字体質を改善するために打ち出された政策が「倹約」でした。 倹約は,不便さとの闘いです。不便さは苦を伴いプライドを傷つけます。これら感情的・感覚的な欲求を管理するのは,人間の理性・知性です。したがって,理性・知性を磨く学問は,倹約と不可分なものとなります。 鷹山の「大倹令」は,続けてこうも言っています。 「何ほど今日の上,心安く暮らしそうろうとも,明日家あい立たざるには取替えがたくそうらえば,今日の難儀と当家の永く続くことを取替えそうろう心得をもって…」「大倹約を用いそうらわば,今はさぞや難儀,不自由とも存ずべくそうらえども,面々永く家を保ち身を安しそうろう事にいたしたきものと,重く倹約申し出だしそうろう。ここを考え申さば,今の難儀は難儀とも不自由とも思うまじき事にそうろう。」 もう一つの赤字体質の正体は,繁栄志向・膨張志向です。鷹山の改革が求めたものは,今日の満足・繁栄を捨てて明日からの存続を実現させることでした。このことは,冷静に考えれば理にかなったことです。しかし理性・知性が感情・欲望に負けてしまうと,倹約は先延ばしにされるでしょう。鷹山の財政改革は,理性・知性を磨く学問と倹約との二本柱で進められたからこそ,成功したと言えるのです。 ■備籾蔵 このように体質改善が進められていくことが前提となって,諸々の政策は効果を発揮していきました。鷹山たちが力を入れたのは,米沢藩の経済的体力をつけることでした。その核となった政策が,身分ごと・地域ごとの備籾蔵(そなえもみぐら)の設置です。これは「非常食米の備え」ですが,米で納税され,藩の財政規模が石高 で表される当時,米は現金としての性質も併せ持っていましたから,「資本の備蓄」という意味合いもありました。これらの備蓄は,大飢饉によって消耗することはありましたが,飢饉の被害は最小限に止められ,その効 備籾蔵政策の注目点は,受益者負担のやり方だったということです。当時の食糧備蓄は,富裕者の供給によるものが一般的で,米沢藩内でも受益者負担には反対の声があったようです。しかし,鷹山の政策はいずれもそうなのですが,決して「恵んでやる」ようなことはしませんでした。領民一人一人が自分の足で立って生活していけるように、あらゆる支援や指導,体制づくり・環境づくりに手を尽くしても,生きていくためにやるべきことを肩代わりするようなことはしなかったのです。鷹山は,藩主になったときに「受けつぎて 国のつかさの身となれば 忘るまじきは 民の父母」という歌を詠んでいますが,受益者負担のやり方は,まさに我が子の未来を案じ自立を願う親心だったと言えましょう。 ■収入増加策 鷹山たちの財政改革でき評価すべきは,効果的な借金と投資を駆使しているところです。これらの政策に商人の協力があったことはもちろんですが,鷹山の時代は商人を藩に迎えることもしています。近年の研究では,改革の中心人物だった莅戸善政(のぞきよしまさ)が酒田の豪商本間家より具体的な指導を受けたとも考えられています。彼らは,いわゆる公的な行政者というよりもむしろ,民間企業の経営者並みの手腕を持って財政に当たったと言えましょう。学問・政治に偏らず,バランスの良い経済観念も持ち合わせていたからこそ,改革は米沢藩地域社会の良質化をもたらしたのです。 4 仁政 江戸時代は儒学に基づく政治思想・社会思想が浸透し,全国的に仁政(思いやりのある政治)が重んじられていました。もちろん,「民の父母」であることを心に刻んだ鷹山も,あらゆる分野で,あらゆる立場の人に対して,仁政に徹していたと言えましょう。とくにここでは,鷹山の医療政策について取り上げてみたいと思います。 そもそも上杉家は,直江兼続以来,医学に熱心だったと言われています。米沢藩の藩医たちは探究心が強く,1764(明和元)年には刑死体の解剖もおこなわれています。その土台の上に,細井平洲の実学(現実に即し役立つ学問)を学んだ鷹山は,解剖の実施のほか,西洋医学も積極的に導入しました。(中国で生まれ発展した儒学では,西洋は「夷狄」とされ蔑視されていましたが,鷹山は実証的な西洋医学を評価し,人々のために積極的に導入したのです。) 鷹山は優れた藩医を長崎や杉田玄白のもとに送り,学ばせました。蛮社の獄で追われる身となった高野長英が,米沢の蘭医堀内素堂(そどう)のもとに身を寄せたのは,二人が学友だったからです。また,鷹山は,杉田玄白の斡旋でオランダの外科医療機器類を購入して医学館「好生堂」に与えています。 もちろん医学・研究ばかりでなく,領民の医療にも力を入れています。鷹山のもとで,領内7ヵ所に新たに宿場医師が置かれ,医療に当たりました。 さらに鷹山は,食材の面からも領民の健康保持に心を砕きました。現代のように鶏肉・獣肉を日常的に食べ 近年,石油危機やバブル崩壊で日本経済が苦境に立たされたとき,上杉鷹山の藩政が注目され,鷹山を扱った本も多く出版されました。しかし,それらは更なる繁栄が期待された視点で書かれ,鷹山の手法が断片的に評価された「つまみ食い」のようなものでした。鷹山の改革は,目先の繁栄を捨てて将来の存続を志向するものです(このことは「大倹令」の中で鷹山自身が語っています)。歴史的に見ると,日本の商工業経済(資本主義経済)は昭和末年のバブル経済がピークであり,情報化と人口減少によって経済規模が縮小していくことが予見されます。そんな今こそ,鷹山の改革を正確に理解し,鷹山を正しく評価する意義があると思います。 ある大学教授が「現在の日本が抱える様々な問題点の答えは全部 鷹山が持っている」と言われました。本当に「全部」かどうかは吟味の余地があるとしても,鷹山を学ぶことで,問題点の相当な部分に指針が得られることは事実でしょう。目先の20年,30年程度の繁栄のために,子孫の存続を危機にさらしかねない主張が飛び交う現代の世界情勢の中,まずは日本人が鷹山に学び,より正しい指針を打ち出していきたいものです。 ※本文筆者の遠藤英先生が紹介する 【旧米沢藩領における鷹山関係の主な史跡等】 は、こちらをご覧下さい。 〇掲載日 平成24年8月 〇執筆者 遠藤 英(九里学園高等学校 教員) 主な著書 「直江兼続の素顔」 「直江兼続物語 米沢二十年の軌跡」(新潟日報事業社) 「直江兼続がつくったまち米沢を歩く」 「米沢学事始 上杉鷹山の訓え 明るい未来を拓くために・・・」 〇編集 東野真由美(置賜文化フォーラム) 〇写真提供 東光の酒蔵資料館 笹野一刀彫館 愛知県東海市教育委員会 〇関連ページ 直江兼続 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