現代の指針 上杉鷹山3 ※追加資料【旧米沢藩領における鷹山関係の主な史跡等】


▼一覧

<米沢市内>
■松岬公園付近
■市街地(東)
■市街地(西)
■市街地(南)
■市街地(北)
■郊外(東)
■郊外(西)
■郊外(南)
■郊外(北)
<米沢市外>

<米沢市中心>

■松岬公園付近


■松岬神社 : 上杉鷹山・細井平洲・竹俣当綱・莅戸善政,上杉景勝・直江兼続をまつる神社。境内に,鷹山が隠居の際に次期藩主上杉治広(はるひろ)に贈った「伝国の辞」碑が建つ。
■「建国記念の日」碑 : 割れた「いただき橋」の石材で作られた。
■稽照殿(上杉家宝物殿) : 鷹山の遺品を多く展示している。
■米沢市上杉博物館(伝国の杜内) : 鷹山の遺品を多く保管・展示している。
■春日神社 : 米沢藩主となった鷹山が江戸から密使を立てて,藩主としての決意をまとめた誓詞を奉納した。
■上杉謙信祠堂跡 : 雨請いの参詣,隠居直後の参籠など,謙信は鷹山にとって,まさに米沢・上杉の祖神であった。
■上杉鷹山立像(上杉神社参道) : 横には「なせば成る・・・」の言葉が刻まれた碑がある。
■上杉鷹山坐像(松岬神社東隣)
■「民の父母」碑(上杉神社参道) : この掛軸は稽照殿に展示されている。
■本丸堀跡の鯉 : 鷹山が隠居所「餐霞館」の堀で鯉を養殖したことにちなんで現在も養殖されている。
■「鯉供養之碑」
■「餐霞館」跡  : 35歳で隠居した鷹山は,以後,隠居所「餐霞館」に在って第10代藩主上杉治広・第11代藩主上杉斉定を後見し,藩政改革を指導し続けた。
■上杉鷹山レリーフ(「餐霞館」跡地)
■上杉鷹山胸像(上杉記念館「上杉伯爵邸」前庭)

▲一覧へ戻る

■市街地(東)


■御入水川(おいりみずがわ) : 城内の上水道として直江兼続によって開削され,いまも下水道として街中を流れている。大手門前広場の入口に当たる現 門東町1丁目4・5間の小道北側に「いただき橋」が架けられていた。
■米沢織物歴史資料館(門東町1-1-87) : 鷹山の時代に始められた米沢織の資料館。なお,隣接する学校は裁縫女学校を前身とする九里学園高校。市内各所に米沢織の工場・工房・販売所があり,体験教室もおこなわれている。
■藁科松伯墓(東寺町・善立寺) : 藁科松伯(わらしなしょうはく)は,竹俣当綱・莅戸善政を育て,鷹山のために細井平洲を見出した米沢藩の儒医。
■黒井忠寄墓(鍛治町・高国寺) : 和算家で,鷹山の財政改革時に勘定頭を勤めた。また,忠寄の企画・ 測量・設計による黒井堰(郊外・北)は30数ヵ村に及ぶ広大な田地を潤し,藩政の基盤をより堅固なものとした。
■小嶋総本店 東光の酒蔵 : 鷹山の時代から続く造り酒屋。建物内には鷹山にかかわる展示室あり。

▲一覧へ戻る

■市街地(西)


■米沢藩主上杉家廟所(御廟1丁目) : 米沢藩歴代藩主の墓所。鷹山によって建てられた先代上杉重定の廟所から,より簡素な宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根に変えられている。鷹山の廟所の隣の一段下がった場所に,藩主となることなく19歳で病死した鷹山の子 顕孝(あきたか)の廟所がある。

▲一覧へ戻る

■市街地(南)


■林泉寺 上杉家廟所 : 上杉家の奥方・支侯等の墓所。鷹山を生涯にわたって支えた側室お豊の墓もある。林泉寺の山門は,竹俣当綱屋敷(現 九里学園高校)の門を移築したものであり,春には境内の鷹山お手植えのしだれ桜が咲き誇る。墓地には直江兼続・おせん夫妻の墓をはじめ,上杉家臣団の墓地が所狭しと並んでいる。
■莅戸善政墓(南寺町・長泉寺) : 鷹山の改革は隠居を挟んで明和・安永の改革,寛政の改革に分けることができるが,寛政の改革の陣頭指揮を執ったのが莅戸善政であった。

▲一覧へ戻る

■市街地(北)


■白子神社(しろこじんじゃ)(城北2丁目) :  712年創建と伝えられる産土神(うぶすながみ)。春日神社と同様,米沢藩主となった鷹山が江戸から密使を立てて藩主としての決意をまとめた誓詞を奉納した。入口に「鷹山公誓詞」碑が建つ。
■法泉寺庭園(西大通1丁目)  : 米沢三名園の一つで,1770年8月15日に鷹山が盛大な詩会を開いた。そのときの鷹山の作品は掛軸として法泉寺に保存されており,庭園の前(文殊堂前)にはそれを写し取った詩碑が建っている。
■法泉寺 先聖殿(西大通1丁目)  : 藩校興譲館中央奥に建てられた孔子廟。戦後この地に移され,約4分の1の大きさに縮小されたが,建材はほとんどが創建当時のままという。
■興譲館跡(中央2丁目3)  :  藩校興譲館跡。記念碑には「興譲館之図」と鷹山像・細井平洲像が描かれている。

▲一覧へ戻る

■郊外(東)


■宮坂考古館(東1丁目2)  : 米沢藩の貴重な遺物を集めた私設資料館。鷹山がお忍びで領内をまわった際に老婆の農作業を手伝った。そして,鷹山の正体を知らずに御礼の「刈上げ餅」を持ってきた老婆に対し,鷹山は直接言葉をかけ,銀5枚を与えた。老婆は嫁いだ娘に,そのときの驚きと喜びをつづった手紙を添えて,孫に買った足袋を「お殿様より拝領物」として贈った。その手紙と足袋が当館に遺されている。
■鯉店(宮坂鯉店 相生町7/米沢六十里養魚場 東1丁目)  : 鯉料理の専門店。宮坂鯉店は江戸時代の花町の入口横にあり,お座敷の鯉料理を仕出ししていたと聞く。

▲一覧へ戻る

■郊外(西)


■ 藉田の碑(御廟3丁目)  :  ここの住所は近年まで「遠山町」だった。1772年,鷹山は農業振興のために自ら遠山村の田に入って鍬を入れた。以来,藩主は代々一年おきに(参勤交代のため米沢在住が一年おきになるため)この「藉田の礼」を続けた。これは古代中国の農耕儀礼であったが,江戸時代に藩主が田泥に入ることは考えられないことであった。なお藉田は,大幅に面積を減らしたが,現在も上杉神社によって管理され,米が作られている。
■愛宕神社(遠山町愛宕山)  : 藩士・領民とともに鷹山が雨請いに参詣した。神社前には「鷹山公雨乞之碑」が建つ。8月2日の例大祭を前に,前日には地域住民の早朝登山,前夜には地元住民が松明行列をもって山麓地蔵園の愛宕神社に参詣する「愛宕の火祭」がおこなわれている。
■塩田跡(小野川温泉 児童公園南)  : 鷹山時代の徹底した自給自足体制を目指した改革の中で,塩分を含む小野川温泉水から塩の生産が始められた。
■成島焼・相良人形 : 鷹山時代の自給自足体制づくりの中で,陶器の生産も始まった。担当者相良厚忠(さがらあつただ)は良質の土が採れる成島に窯を開き,成島焼は領民に広く普及した。その後,相良は土人形作りも始め,型・製法は当時のまま相良家に伝えられている。

■草木塔(そうもくとう)(入田沢塩地平) : 草木塔とは,建築用材などの目的で伐採された樹木を供養する石碑。塩地平の草木塔は現存する最も古いもので,鷹山の時代に作られた。鷹山の姿勢・思想が領民の間で形になったものの一つと考えられている。草木塔はその後もずっと当地域で作られ続けており,市内随所で見ることができる。

▲一覧へ戻る

■郊外(南)


■竹俣当綱墓(南原横堀町・常慶院)   :    鷹山が隠居するまで,明和・安永の改革の陣頭指揮を執ったのが,竹俣当綱であった。
■直江石堤(南原石垣町)  :  直江兼続が築いた石堤は,鷹山の時代に一度決壊しており,大修築がおこなわれている。
■笹野観音堂(笹野本町)  :  鷹山の時代に修理をおこなっている。その後,焼失したために,現在の社殿は鷹山の死後1843年に建てられたもの。
■お鷹ぽっぽ : 笹野一刀彫は千年以上の歴史を持つ信仰民具だが,中でも「お鷹ぽっぽ」は鷹山によって奨励され,笹野一刀彫を代表するものとして現代に伝えられている。
■県立米沢興譲館高校(笹野) : 藩校「興譲館」の名を受け継ぐ県立高校。藩校関連の資料が保管されいる。
■普門院・羽黒神社(関根) : 晩年を迎えた細井平洲に,再建された米沢をひと目見ていただきたいという鷹山の願いで,平洲の3度目の米沢来訪が実現し,鷹山は城下を離れ関根の羽黒神社まで出迎えた。二人は涙の再会を果たし,普門院までの緩やかな坂を無言のまま肩を並べて歩き,普門院で休憩した。このときの鷹山の言動は「敬師の教え」として戦前の修身の教科書に記され,この地は「上杉治憲敬師郊迎阯」として国指定史蹟となっている。普門院では二人が休憩した部屋,そのときに用いた道具を,当時のまま保存している。
■大沢宿(大沢) : 鷹山が米沢に初入部の日は吹雪だったという。すると鷹山は駕籠の担ぎ手の苦労を気遣い,予定の関根宿(米沢城手前の最後の宿場)より一つ手前の大沢宿で馬に乗り換え米沢入りしたという。

▲一覧へ戻る

■郊外(北)


■黒井堰(窪田町窪田)  : 改革中の一大事業として,黒井忠寄の企画・測量・設計で開削された。千眼寺の裏手において松川(最上川)より取水され,現在も米沢盆地北部の広大な田地を潤している。

▲一覧へ戻る

<米沢市外>

■御殿守(南陽市赤湯) : 鷹山は義父上杉重定とともに何度もここ赤湯御殿の温泉を訪れた。御殿には守番「御 殿守(ごてんのもり)」が置かれた。資料室には鷹山の書も数多く展示されている。
■総宮神社(長井市横町) : 現在の社殿は鷹山から下賜された官材によって造られた。不況時の公共事業の一つと考えられる。
■小国の上杉神社(小国町神明山) : 明治時代,米沢城本丸が上杉謙信・鷹山を祀る上杉神社(その後, 鷹山を祀る松岬神社が創建され,上杉神社の祭神は謙信のみに)になると,頻繁に参詣できない小国在住の旧家臣たちのために,小国町の高台に上杉神社が創建された。その際,当主上杉茂憲(もちのり)より,謙信が川中島の戦で用いた軍扇と,鷹山自作の歌の短冊が寄贈されている。

▲一覧へ戻る


「現代の指針 上杉鷹山」へもどる




〇掲載日 平成24年8月

〇執筆者 遠藤 英(九里学園高等学校 教員)

       主な著書
       「直江兼続の素顔」
       「直江兼続物語 米沢二十年の軌跡」(新潟日報事業社)
       「直江兼続がつくったまち米沢を歩く」
       「米沢学事始 上杉鷹山の訓え 明るい未来を拓くために・・・」

〇編集  東野真由美(置賜文化フォーラム)

〇写真提供  東光の酒蔵資料館
         笹野一刀彫館
         愛知県東海市教育委員会

〇関連ページ  直江兼続

印刷用PDFはこちら



  トップページへ戻る 








支援制度一覧


















R1アートマネジメント事業
R1アートマネジメント事業
H30アートマネジメント事業
H30アートマネジメント事業
H29アートマネジメント事業
H29アートマネジメント事業



置賜文化フォーラム事務局



(C) 置賜文化フォーラム All Rights Reserved. [login]

合計11,316,835件 (2010.07.15~) 今日2,030件 昨日7,592件 記事2,432件