1 わが街のミュージアム 結城豊太郎記念館
明治29年、仙台市にある東北地方で唯一の官立高等学校である第二高等学校に進学しましたが、多くの友人との交流があり、二高時代は先生よりも友人からの影響がほとんどだったと語っています。 明治32年に東京帝国大学政治学科に無試験で入学しています。東大で学んだ時のノートが記念館に保存展示されていますが、結城先生が懐かしい思い出として大事にとっていたものを当館に寄贈され残されているものです。優秀な成績で卒業したものの、深刻な不況と日露間の国交が緊迫した時代で採用が皆無であったことから、盒鏡Ю局総裁のとりなしで、苦心の末に日本銀行に入行したエピソードが残っています。 3 第15代日本銀行総裁 44歳で安田系企業の経営責任者として迎えられ、「安田の財をもっと国家や社会のために役立てることが安田銀行のためになる」という考えの下に改革を断行しています。その象徴的なものの一つに、東京大学の安田講堂ですが、結城先生が安田保善社の専務理事で安田銀行の副頭取のときに建設されたことから「安田講堂」と命名されています。記念館にはその時の上棟式の写真が展示されています。 昭和の初頭、関東大震災、世界的不況、そして第二次世界大戦前の経済不況の中、日本興業銀行総裁に就任し、多くの金融機関が貸し渋りをする中、資金を融資しこの経済不況を乗り切り広く、救世主と仰がれたといわれています。 昭和12年2月に大蔵大臣に就任し、わずか6か月という短い在任期間ではありましたが、戦時下において財政経済の専門家として入閣し、軍部協力内閣と言われた前内閣の予算を修正し、国民生活の維持に尽力するなど相当の成果をあげました。 昭和12年7月に日銀総裁に就任し、戦時下の内政の維持に意を注いで軍部の独走を抑制して、国民の共感を得ました。また、困難とされていた日銀法の改正に力を注ぎ、日本銀行の国の中央銀行としての地位を高めるなど、大きな力を発揮しました。 4 ふるさとは国の本なり 結城先生のふるさとへの貢献は大きく、その一つである「この町にきれいな水をひこう」は結城先生にとっては少年の頃からの志であり、その志であった上水道敷設事業を見事に成し遂げています。 赤湯町は水が不足しており結城先生が幼い頃に2度も大火に見舞われ生家の酒蔵が全焼しています。命を支え財産を守る水は何よりも重要な町の課題でありました。 それだけに水に対する思いが強くあったようです。その水源を鳥上坂に見つけ、昭和9年11月10日に上水道が完成しています。上水道の竣工式の挨拶で結城先生は敬愛する実業家渋沢栄一先生の言葉を引用しており、右のような書をしたためています。「余裕ができたら人を救おうという人は何時まで経っても人を救うことは出来ないし、時間があったら学ぼうとする人は決して学ぶことはできない」と読みとることができます。これこそ、まさに結城先生の生き方を示す言葉のような気がします。 5 人づくりは国づくり 結城先生は、郷土の発展のためには何よりもまず人づくりが大切であると考え、郷里赤湯の教育施設として、自らの本などを寄贈し子ども達や町民のために、昭和10年に「臨雲文庫」と命名された当時としては県下有数といわれた図書館をつくりました。横浜の新子安にあった別荘を移築したといわれていますが、その後この建物は「結城記念館」と名前を変え博物館的な施設として結城先生の資料を展示しておりました。 結城先生は、昭和26年8月1日に、惜しまれつつ75歳の生涯を閉じています。 【開館時間 】 9:00〜16:30(入館受付は16:00まで) 【休 館 日】 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合その翌日) 年末・年始(12月29日〜1月3日) 【入 館 料】 無料 【交 通】 JR山形新幹線 赤湯駅下車 徒歩 … 25分 タクシー … 6分 地図 【問い合わせ】 〒999-2211 山形県南陽市赤湯362 TEL・FAX 0238−43−6802 ○掲載日 平成23年7月 ○執筆者 加藤正人(結城豊太郎記念館館長) ○参考文献・資料 「結城豊太郎先生遺芳録 <上・下巻> 」 結城豊太郎先生遺徳顕彰会出版 「 〃 < 後録 >」 〃 「結城豊太郎先生と郷学 臨雲文庫 」 〃 「銀行ノ生命ハ信用二在リ」 秋田博著 NHK出版 「郷土の偉人結城豊太郎」 VTR 「確かな未来へ夢育むまち 南陽」 DVD ○関連ブログ 南陽市赤湯〜結城豊太郎記念館〜館長日記 印刷用PDFはこちら |