ふるさとは国の本なり 元日本銀行総裁 結城豊太郎先生



1 わが街のミュージアム 結城豊太郎記念館


 南陽市赤湯に、白壁の塀と薩摩藩江戸屋敷の門を移築したといわれる風格のある門があります。門を入ると右手に古民家風の建物、左手に落ち着いた和風の蔵作りの建物があり、これが結城豊太郎記念館です。
 この記念館は、南陽市が生んだ大偉人で昭和12年に大蔵大臣、その後日銀総裁となった結城豊太郎先生の遺徳をたたえ、多くの人々の浄財と南陽市によって建設され、平成7年に完成し、結城先生の直筆の書をはじめ関連する写真や結城先生が集められた貴重な資料が数多く展示されています。ふるさとをこよなく愛する結城豊太郎先生の思いがぎっしり詰まったこの記念館のキーワードは「ふるさとは国の本なり」。ふるさと南陽の宝物です。


2 結城豊太郎先生の生涯

 結城豊太郎先生は明治10年5月24日に当時の赤湯村の造り酒屋に生まれました。結城少年は赤湯小学校に入学しましたが、大変な秀才で卒業するときには、山形県知事賞を受賞したといわれています。赤湯小学校を卒業後、山形中学(現在の山形東高)に進学し、当時の中原貞七校長先生の経済原論の講義に感動し、生涯の進路を経済方面と決意する出会いとなりました。また、中台頼敏先生から書を学び、先生の人間的な感化を受けたことが、書の道に入る動機となりました。その後の将来に大きな影響を及ぼした2つの出会いがこの山形中学であり、「学」と「芸」の道の基本が形成された時代でありました。

 明治29年、仙台市にある東北地方で唯一の官立高等学校である第二高等学校に進学しましたが、多くの友人との交流があり、二高時代は先生よりも友人からの影響がほとんどだったと語っています。
 明治32年に東京帝国大学政治学科に無試験で入学しています。東大で学んだ時のノートが記念館に保存展示されていますが、結城先生が懐かしい思い出として大事にとっていたものを当館に寄贈され残されているものです。優秀な成績で卒業したものの、深刻な不況と日露間の国交が緊迫した時代で採用が皆無であったことから、盒鏡Ю局総裁のとりなしで、苦心の末に日本銀行に入行したエピソードが残っています。

3 第15代日本銀行総裁

 日本銀行に入行した結城先生の活躍は目覚ましく、34歳で初代の京都支店長に就任し、42歳の若さで日本銀行大阪支店長を兼ねて理事となり、関西金融界を動かしています。
 44歳で安田系企業の経営責任者として迎えられ、「安田の財をもっと国家や社会のために役立てることが安田銀行のためになる」という考えの下に改革を断行しています。その象徴的なものの一つに、東京大学の安田講堂ですが、結城先生が安田保善社の専務理事で安田銀行の副頭取のときに建設されたことから「安田講堂」と命名されています。記念館にはその時の上棟式の写真が展示されています。
 昭和の初頭、関東大震災、世界的不況、そして第二次世界大戦前の経済不況の中、日本興業銀行総裁に就任し、多くの金融機関が貸し渋りをする中、資金を融資しこの経済不況を乗り切り広く、救世主と仰がれたといわれています。

 昭和12年2月に大蔵大臣に就任し、わずか6か月という短い在任期間ではありましたが、戦時下において財政経済の専門家として入閣し、軍部協力内閣と言われた前内閣の予算を修正し、国民生活の維持に尽力するなど相当の成果をあげました。
昭和12年7月に日銀総裁に就任し、戦時下の内政の維持に意を注いで軍部の独走を抑制して、国民の共感を得ました。また、困難とされていた日銀法の改正に力を注ぎ、日本銀行の国の中央銀行としての地位を高めるなど、大きな力を発揮しました。

4 ふるさとは国の本なり

 結城先生は教育を支える母校の赤湯小学校に大きな贈り物をしています。その一つが小学校のグランド拡張工事です。当時としては県下で一番広いと言われていたようで広大なグランドを作っています。さらに、当時としては珍しいドイツ製のピアノを寄贈しています。「音楽を奏でる楽器ならドイツだろう」とわざわざドイツからピアノを買い求めて寄贈しています。赤湯小学校には2台のピアノを寄贈していますが、その一台が記念館に展示してあります。





 結城先生のふるさとへの貢献は大きく、その一つである「この町にきれいな水をひこう」は結城先生にとっては少年の頃からの志であり、その志であった上水道敷設事業を見事に成し遂げています。
 赤湯町は水が不足しており結城先生が幼い頃に2度も大火に見舞われ生家の酒蔵が全焼しています。命を支え財産を守る水は何よりも重要な町の課題でありました。
 それだけに水に対する思いが強くあったようです。その水源を鳥上坂に見つけ、昭和9年11月10日に上水道が完成しています。上水道の竣工式の挨拶で結城先生は敬愛する実業家渋沢栄一先生の言葉を引用しており、右のような書をしたためています。「余裕ができたら人を救おうという人は何時まで経っても人を救うことは出来ないし、時間があったら学ぼうとする人は決して学ぶことはできない」と読みとることができます。これこそ、まさに結城先生の生き方を示す言葉のような気がします。



5 人づくりは国づくり

 結城先生は、郷土の発展のためには何よりもまず人づくりが大切であると考え、郷里赤湯の教育施設として、自らの本などを寄贈し子ども達や町民のために、昭和10年に「臨雲文庫」と命名された当時としては県下有数といわれた図書館をつくりました。横浜の新子安にあった別荘を移築したといわれていますが、その後この建物は「結城記念館」と名前を変え博物館的な施設として結城先生の資料を展示しておりました。
 また、記念館入口の門は第9代日銀総裁だった井上準之助が所有していた薩摩藩江戸隠居屋敷表門を貰い受けてこの赤湯の地に移築したものです。「結城先生は、幕末から明治の日本の黎明期にこの門をくぐったであろう若い志士達の思いを受け継ぎ、ふるさとの若者達も学んでほしいと願いこの門を移築したのではないか」と思いを巡らしていますが、その結城先生の願いを受け継ぐ若者達がこの門をくぐって育ち始めています。南陽市が進めている青年教育推進事業に集う若者たちが、臨雲文庫(りんうんぶんこ)を活動の拠点に歩みはじめました。結城先生の考える人づくりが、現代に生まれ変わってスタートしたのです。先生の思いはまぎれもなく現在の若者達に受け継がれています。
 結城先生は、昭和26年8月1日に、惜しまれつつ75歳の生涯を閉じています。

【開館時間 】  9:00〜16:30(入館受付は16:00まで)

【休 館 日】  毎週月曜日(月曜日が祝日の場合その翌日)
          年末・年始(12月29日〜1月3日)

【入 館 料】  無料

【交    通】  JR山形新幹線 赤湯駅下車
          徒歩   … 25分
          タクシー …  6分
          地図

【問い合わせ】 〒999-2211
          山形県南陽市赤湯362
          TEL・FAX 0238−43−6802

       



○掲載日 平成23年7月

○執筆者 加藤正人(結城豊太郎記念館館長)

○参考文献・資料  「結城豊太郎先生遺芳録 <上・下巻> 」   結城豊太郎先生遺徳顕彰会出版
             「       〃        < 後録 >」           〃
             「結城豊太郎先生と郷学  臨雲文庫 」            〃
             「銀行ノ生命ハ信用二在リ」           秋田博著 NHK出版
             「郷土の偉人結城豊太郎」 VTR
             「確かな未来へ夢育むまち 南陽」 DVD


○関連ブログ   南陽市赤湯〜結城豊太郎記念館〜館長日記


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