詩人 森英介







1 日本を代表する詩人たちに絶賛された たった一冊の個性的な詩集のこと

 戦後の米沢に、自らを森英介と名乗った詩人がいました。彼は、生涯にたった一冊の詩集しか遺しませんでしたが、その一冊は、高村光太郎※1をして「おそろしい詩集」と言わせ、田村隆一※2には「日本の詩の世界ばかりではなくて、人は、その存在の意味を、あらためて深いところから問われる」とまで言わせたのでした。
 その詩集、『地獄の歌 火の聖女』を今改めて手に取る人は少ないかもしれません。彼の詩人としての活動はきわめて短く、また、作品の完成度も実にまちまちで、「時代を代表する詩人」といった存在には残念ながらなり得ない人でした。しかし、その詩集は、第二次世界大戦後の混乱のさなかにあって、ことばによる表現の最も深い部分を突き詰めて行こうとする迫力に満ちあふれており、その意味で、彼は他の誰とも異なる個性的な詩人だったと言えます。
 今、詩人森英介のことを覚えている人は、たとえ米沢にあってもそう多くはないようです。
 ここでは、昭和の日本を代表する詩人に絶賛されたこの詩人を皆さんにご紹介したいと思います。


2 戦後の青年運動と置賜 そして森

 森英介の本名は佐藤重男といい、1917(大正6)年、繊維問屋佐藤治右衛門の次男として米沢市蔵之内町に生まれました。勉強は得意だったようで、興譲館中学校に進みますが、「愛宕山事件」(教諭排斥と会計不正の追及を求めて生徒が起こした立てこもり事件)の首謀者格として追われるように学校を去ることになります(四年修了)。進学先に選んだ早稲田大学哲学科も結局退学しますが、彼はこのころから、哲学や文学に対する関心を持ち始めていたようです。
 終戦後の1946(昭和21)年、米沢で雑誌『労農』を創刊し、佐藤徹の筆名で詩を発表し始めます。
 この時代、戦時体制からの解放ムードに包まれた日本の各地では、中央の出版社によらない、青年層による自主的な言論活動が活発に行われました。その典型的な一つであった『労農』は、後の東京大学総長である経済学者大河内一男※3の協力を得て発行された、という事実にも明らかなように、基本的には社会改良を目指した言論誌を志向したようです。しかし、その実際の誌面は、経済学の論文の隣に創作が並び、その間には古典文学からの引用句がアフォリズム(警句)のようにちりばめられるといった、よくも悪くも「何でもあり」の、森を含む当時の青年たちの鼻息荒く意気盛んな姿がしのばれるようなものでした。
 終戦後に起きたこの全国的な青年運動ブームは、1950(昭和25)年を境にした占領政策の転換、そして文化行政の進展、中央メディアの復興など、さまざまな要因によってあっという間に終焉を迎えることになります。しかし、近年の日本文化研究では、現在にまで続く戦後日本社会が結果として抑圧し、捨ててしまった多様な可能性の萌芽を、この時代の青年運動に探る研究が、盛んに行われています。米沢工専、米沢興譲館中学校を擁した置賜は、実は、この青年運動にかけては日本有数の土地であって、山岸外史※4の米沢青年文化連盟など、さまざまな活動が行われました。しかし、その実態についてはまとまった調査がまだないようです。もしこれから調査が進むならば、鷹山公のまち、繊維のまち、に加えて、新たな置賜の顔が見えてくることになるかも知れません。

3 詩人 森英介の誕生

 話を詩人に戻しましょう。
 『労農』を通じた青年運動に挫折した森は、置賜と東京を行き来する放浪生活に入ります。そのさなか、1947(昭和22)年、東京で戦災者への支援活動をしていたクリスチャン高野久子を知ったことが、彼の詩にとっての大きな転機となりました。以降、彼女にひかれる中で信仰を深めつつ、森はこれまで以上に精力的に、のめり込むように詩作に取り組むことになります。
 彼の詩集のタイトル「火の聖女」は、彼女のことを指していると考えて間違いありません(詩集の中では森は彼女のことを澤由紀と呼んでいます)。しかし、それは、森が彼女に捧げた熱烈な思慕が、あるいは信仰が、彼の詩を高めた、ということだけを意味するのではありません。
 青春時代の森は、哲学、政治理論、そして文学に至るまで、濫読家と言っていいほどの読書をしていたようです。中でも、1930年代以降の日本で活躍していた詩人たちの作品に彼が熱中したことは、現在、米沢市立図書館に収められている彼の蔵書によってうかがい知ることができます。事実、『労農』時代を含む初期の森の詩には、高橋新吉※5萩原朔太郎※6らの作品からほとんどそのまま借用してきたかのような詩句がそこかしこに見え隠れします。それは、青年なら誰もが持つだろう憧れ、あるいは「いつかは自分も高名な詩人のようになるのだ」といういささか尊大な自負心のあらわれであったかも知れません。
 しかし、青年運動に挫折し、また、高野(澤)を通じて信仰の世界を知る中で、森は、「絶対的なものに自ら到達しよう」という理想主義から離れざるを得なくなります。


 
 ここで森は、自らを「権力」「知性」「二十世紀精神」とはかけ離れた「孤独者」として定義します。「知性」や「二十世紀精神」とは、彼が青年運動によって追求しようとした理想的な近代社会を支えるものです。と同時に、「知性の夢」ということばには坂口安吾の、「二十世紀精神」ということばには太宰治の姿が見え隠れすることにも気づきます。森は、「誇り」に満ちた理想的な自画像を捨て、「自分の杖」を持つ「孤独」な「生活」の中に自らの詩を探し出そうとします。
 高野(澤)に対する想いも同様に描かれます。

 「あなた」のうつくしさにひかれながら決してそれと一体化することはなく、眼前にいてひたすら凍えながら、「これで/よい」とする「わたし」の姿に、青年のおごりやてらいを見つけることはもうできません。そうではなく、矛盾に満ちた自らの惨めさを受け止めてそれに耐えようとする凛とした厳しさが、この詩の全体に響きます。

4 森英介の詩を今読むこと
 
 このようにして、詩作に没頭した森でしたが、その出版は困難を極めました。彼は、山形市香澄町の山形荷札印刷株式会社に活字工として勤めながら、自らの詩集の組版、製本を自力で行うことになります。そして、印刷が完了したその翌日、腹痛を訴えて入院し、詩集刊行を目前に胃穿孔で亡くなります。33歳の生涯でした。
 死後、彼の詩業を再評価しようとする機運が幾度かありましたが、現在では、彼の詩をどこの書店や図書館でも気軽に手にすることができる、といった状態にはありません。ここでも、森の詩の全貌をご紹介するには至りませんでしたが、もし、彼の詩集をどこかで目にすることがあれば、是非、手に取ってご覧頂きたいと思います。難解かつ破天荒で、時としてほとんど絶叫に近いようなハチャメチャな作品すらも含まれる詩集ですが、しかし、読み
進められるうちに、そのことばに込められた異様な迫力にお気づきになるはずです。憧れとはほど遠い惨めな自分を正面から受け止めてもがく死の直前の作品群は、実は、彼が憧れ続けた萩原朔太郎の詩の本質的な部分を個性的に受け継ぐもののように見えます。逆説的な言い方になりますが、森は、朔太郎に憧れることを止めることで、朔太郎の詩を自分のものにできたのかも知れません。




※森英介の作品は、「火の会」から平成十年に発行された復刻版『地獄の歌 火の聖女』から引用し、旧かなを新かなに改めました。


※本記事の執筆、作成にあたり、佐藤知由氏(森英介のご親族、株式会社米沢紀伊国屋 代表取締役 社長)のご協力を賜りました。記して感謝します。



〇掲載日 平成24年1月
  
〇執筆者 森岡卓司(山形大学 人文学部 准教授)
       森岡研究室 Morioka Labo
       山形大学 人文学部
     
〇写真提供 市立米沢図書館

〇取材協力 佐藤知由さま(株式会社米沢紀伊国屋 代表取締役 社長)


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