置賜ワイン物語


 山梨県、長野県につぐワイン生産県としての山形。中でも、置賜のワインは県内では一番古い歴史があり、置賜には県内ワイナリーの五割以上が集まっています。
 置賜のワインについて、酒井ワイナリーの酒井綾子取締役と、浜田株式会社の濱田淳社長からお話をお伺いすることができました。

1 ぶどうの種類と置賜の地

 ぶどうを大きく分けると、 ヨーロッパ系とアメリカ系の二種だそうです。
●ヨーロッパ系=ヴィティス・ヴィニフェラ系品種→ワイン専用のぶどう
●アメリカ系=ヴィティス・ラブルスカ系品種→主に生食用、ジュース用
 1300年の歴史を持ち世界に誇れる日本古来品種の甲州種はヴィティス・ヴィニフェラ系に属します。
 ヴィニフェラ系品種で造るワインは、熟成により品質が向上し、まろやかなワインになります。しかし、生育が弱く、フィロキセラというアメリカ系から入ってきた害虫による大規模な被害により1880年前後ヨーロッパ系のぶどうは全滅し、現在のヨーロッパ系は、アメリカ系に接ぎ木をして育成しているようです。
 生育が強いアメリカ系のラブルスカ系品種は、生食用が多く、これを原料として造るワインは熟成をあまり必要としない早飲み用のフルーティーワインです。

十分一山 山の斜面を利用したぶどう畑
 置賜の南陽市赤湯は、ぶどうの生育にむいた地形と気候により、古くからぶどうを栽培し生産量も山形県内ではトップクラスです。山の斜面を利用したハウスのぶどう畑は、独特の光景で、盆地特有の寒暖の差が糖度を増し、水はけの良い土壌や長時間日照など、良質のぶどう栽培に適した場所です。置賜のワイナリー6軒の内4軒が赤湯地区にあるのも良い原料が身近で栽培することができたからなのでしょう。

小さなワイナリーの独自の努力により、大量生産では造れない個性豊かで繊細なワインの味が置賜にはあるのです。


2 ワイン造りの工程

 ワインの製造工程は、醸造所や造り手によって微妙に造り方が異なるようですが、基本的な製造工程は同じです。赤ワインと白ワインでは製造工程が違っています。次に、大浦ぶどう酒さんでのワイン製造工程をご紹介します。


発酵中の白ワイン
●白ワイン
1搾汁  厳選されたぶどうを搾汁する。
2発酵  15℃前後の低温で10日から20日掛けて発酵させる。発酵後、不純物を沈殿させる「澱下げ(おりさげ)」をし、除去する「澱引き(おりびき)」を行う。
3貯蔵  澱引きが終わったワインは貯蔵してから、濾過を行い瓶詰めする。。


赤ワインは果汁を搾らず、
ぶどうの梗だけ取り除き、
そのまま発酵させる。
●赤ワイン
1破砕 ぶどうを破砕して果梗(ぶどうの茎)を抜き取り、発酵タンクに入れる。
2発酵  25℃前後の温度にて15日位で完了。発酵後圧搾を行い、澱下げを行い澱引きする。
3貯蔵  発酵が完全に終了したワインは、種類により1〜3年タンクまたは樽で貯蔵する。貯蔵後に濾過を行い瓶詰めする。
 瓶詰されたワインが、密栓され空気との接触をほぼ完全に断った状態で

樽熟成中のワイン
熟成が進むことは、他の酒類ではほとんどみられないワインの大きな特徴だそうです。





3 置賜ワインの歴史

●置賜のぶどう
 ワインは原料がいのちですので、良質なぶどうがなければ製造できません。では、ぶどうがこの置賜の地に伝わったのはいつなのでしょう。説はいろいろとあり、記録などは残っておらず、説の証明などはできないようですが、お二人からお聞きした歴史ロマンを感じる2つの説をご紹介したいと思います。
 「モンサンワイン」のブランドでワイン造りをしておられる浜田株式会社の濱田社長の説は、米沢の初代藩主「上杉景勝」にさかのぼります。武田信玄の6女「菊姫」は上杉景勝の正室となります。嫁いだ後は上杉家中から甲州夫人、甲斐御寮人と呼ばれたらしく、質素倹約を奨励した賢夫人として敬愛されたそうです。この菊姫に関わる武田の家臣が甲州ぶどうを置賜の地へ持ち込んだという説です。
 創業明治25年(1892年)の酒井ワイナリーは、山形県では一番古く、置賜のワインの長い歴史を刻んできています。酒井綾子取締役の説では、江戸時代の初期頃から南陽市川樋(かわどい)地区は金鉱山で栄え、その頃に山梨から金堀に来た人が、甲州ぶどうの苗を赤湯の山に植え実がなり、山形県のぶどう発祥の地となったと言われている説です。
 

 手がかりのひとつ、樹齢300年のぶどうの木が南陽市の金山に存在したそうですが、残念なことにもう30年も前に枯れてしまったようです。
 どのような説にしても、この地にぶどうを伝えてくれた方のおかげで、置賜がぶどうの産地となり、ワイン造りの産業を生み出し、新しい食文化をもたらしてくれたのです。

●置賜ワイン造りの灯
 置賜ワイン造りの最初の灯は、酒井ワイナリーの創業者酒井弥惣(やすお)氏がもたらします。この灯がなければ今この地にぶどう畑やワイン産業はなかったと言っても過言ではありません。弥惣氏が子どもの頃、明治5年から明治8年(1875年)2月までチャールズ・ヘンリー・ダラス氏が米沢を訪れています。米から酒を造ることが通常だった日本に、ぶどうから酒を造る情報をダラス氏がもたらします。そのことを親から聞き、子ども心にぶどうから酒を造ること志したのです。日本には全く初めての食文化ですので、つくり方のマニュアルがあるはずもなく、独学でワイン造りを進めます。原料となるぶどう作りから取り組み、試行錯誤しながら、明治25年ワイナリーを創業したそうです。酒井ワイナリーには当時のラベルが残っており、ラベルを作れるという事はある程度量産をしていたことを物語っています。初めての食文化を日本人が受け入れた証拠です。後に赤湯町長となった酒井弥惣氏は、町有地の白竜湖に向かった南斜面の十分一山(町有地)を全山開放して一般に貸し付け、ぶどう園としての開墾を進めます。須藤ぶどう酒工場の初代須藤鷹次氏等はじめ地域の人々がこぞって協力し全山ぶどうの山になっていったそうです。

●置賜ワインの礎

酒石酸(大浦ぶどう酒提供)
 第二次世界大戦の頃、ワインから取れる酒石酸には圧電現象があり、これが潜水艦や魚雷の発する音波をキャッチする水中聴音機の素材として、昭和17年(1942年)以降、急速に需要が高まったことにより、赤湯には、ワイナリーがどんどん増え、60軒以上が酒石酸を軍に供出するため大量のワインを造っていたそうです。この当時は、機械など無く手作業でのワイン造りです。また戦争中で、働きざかりの男手がいない中で、お年寄りと女性だけで大変苦労した作業であったようです。酒石酸を取ったあとに残ったワインをすてるのはもったいないということで、ビンに詰めて販売したようですが、当然味は悪く “赤湯のワイン”と言えば不味い酒の代名詞と言われた程で、戦後、消費者へのそのイメージが尾を引き、多くのワイナリーが無くなっていったそうです。
 その中でも、こだわりワイン造りを守っていた少数ワイナリーがありました。それが赤湯で長年ワイン造りを続けてこられた酒井ワイナリー、佐藤ぶどう酒、須藤ぶどう酒、大浦ぶどう酒、この4つのワイナリーです。多くのワイナリーがワイン造りをやめていく中、独自のワイン造りを守り、いろいろな苦労を乗り越え、置賜ワインの礎を築いたのです。

●県産ワインの飛躍
 浜田株式会社 濱田淳社長
浜田株式会社 濱田淳社長
 不味い酒のイメージを払拭し、山形のワインを再生しようと、昭和50年前後から山形県の全ワイナリーが一致団結していきます。このころからワインも食卓で一般的になりつつあり、将来的な消費拡大が期待され始め、大手の酒造事業者もワイン造りに取り組むようになります。浜田株式会社の濱田淳社長は2年間フランスボルドーでワイン造りの勉強をし、昭和48年にワイン造りを始めます。濱田社長は、日本に戻ってワイン造りを開始してから、山形県のワイナリーの交流勉強会を呼びかけ、山形のワインを大きくアピールしていく取組みを始めています。
赤グラスワイン
  そして、県への働きかけを行い、当時の県商工労働開発部の支援にもあって、昭和60年5月13日、山形県ワイン酒造組合を設立します。組合設立により、事業者の団体として県からの支援を受けることができるようになりました。また、県の工業技術センターによる品質向上ための研修や技術指導は、山形のワインを大きく飛躍させました。こうして一歩一歩山形のワイン全体が全国に知られるようになっていったそうです。輸入濃縮果汁から造られる国産ワインや、輸入バルクワインとの混合による国産ワインが非常に多い中で、山形のワインの多くは、山形のぶどうだけでワイン造りをしてきたことも、消費者の心をつかみました。
 ワイナリー同士の団結した取組みと、各ワイナリー独自の努力が実り、今では全国的に「山形のワインは美味しい」と認められるようになっていったのです。

4 置賜ワイナリーの紹介

 山形県ワイン酒造組合には11社が加入し、内、置賜には個性豊かな6のワイナリーがあります。各ワイナリーご自慢のワインや、ワインに関わるエピソード等をご紹介します。
 ※各ワイナリーさんの名前をクリックすると情報が表示されます。

    浜田株式会社 

        有限会社 大浦ぶどう酒  
        有限会社 酒井ワイナリー 
    須藤ぶどう酒工場 
    有限会社佐藤ぶどう酒 
    高畠ワイン株式会社 


5 取材を終えて

 取材を終え感動したことは、山形県のワイン全体に共通して言える点ですが、ワイナリー同士の横の繋がりが強く、ライバルであるにも関わらず、盛んな情報交換や勉強会によるワイン品質向上の取組みへの熱意でした。取材で出会ったワイン造りをされているお一人おひとりが志を持って熱心に取り組んでおられました。これこそが置賜の宝であり、置賜の食文化を守る上で大切にしたいものです。

オーナー制度により耕作放棄地を有効利用している
酒井ワイナリーぶどう畑
 置賜のワインは地道な活動により大きく飛躍してきていますが、その中で新たな問題にも直面しています。南陽市の十分一山において、ぶどうの耕作放棄地が増えているのです。デラウェアが売れることでぶどう畑が広がったようですが、作り手の高齢化と市場の飽和で、ぶどう作りを止めてしまう農家が多く、担い手が減少し、この地でのぶどう畑の風景が無くなりつつあります。もちろんワイン造りだけの問題ではなく、食用ぶどう畑、醸造用ぶどう畑の再生を含め、いかに耕作放棄地に対処し、放棄地をどのように有効活用できるかを検討する必要が生じているようです。過去一致団結し開墾した山であり、この地にワイン産業を生み出した貴重な場でのぶどう生産の問題を、今後の課題として忘れてはならないように感じます。
 置賜ワイン産業のさらなる発展を願うと共に、置賜の地で歴史的にこの産業の基盤を築いてきたぶどう畑が、今後とも豊かな実りが続くことを期待してやみません。



        



〇掲載日 平成24年10月

〇編集執筆  東野真由美(置賜文化フォーラム)

○写真提供
     浜田株式会社
     有限会社 大浦ぶどう酒
     有限会社 酒井ワイナリー
     須藤ぶどう酒工場
     有限会社佐藤ぶどう酒
     高畠ワイン株式会社

〇関連「宝」記事    置賜のぶどうのはなし1
            置賜のぶどうのはなし2


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